37年間ほぼ満席だった名店「オテル・ド・ミクニ」をたたみ、71歳でたった8席だけの新店舗をオープンさせた三國清三シェフ。11月2日の『情熱大陸』では、三國シェフが追い求める「信念のひと皿」に迫る特集が放映予定です。そして9月には、自らの生きざまを描いた自伝を出版。それを記念したトークイベントでは、三國シェフと「オテル・ドゥ・ミクニ」で8年間シェフ・パティシエを務めた「パティスリー エーグルドゥース」の寺井則彦シェフが対談を行いました。今回は、フランス料理の巨匠と東京でいちばん有名なパティスリーのオーナーシェフによる、夢の師弟対談の様子をお届けします。
すべての画像を見る(全4枚)野球の「千本ノック」を受け続けているような日々
三國シェフ(以下三國):寺井さんがうちに来てくれたのは、大きなプロジェクトが成功したことをきっかけに仕事の依頼が次々に舞い込むようになり、ミクニグループが急拡大し始めた頃。僕はもともと1から10まで1人でやらないと気がすまないタイプなんだけど、あのときはもう、実力のあるパティシエに入って一緒にやってもらわないとどうにも店を回していけなかった。
寺井シェフ(以下寺井):当時パリの「ル・コルドンブルー」で先生をやっていていた僕のところに、三國シェフが「どこかにいいパティシエはいないか」と相談に見えて。それで「僕が行きます」と(笑)。
三國:ええっ? ほんとに寺井さんが来てくれるの? マジかよ! みたいな。寺井シェフレベルの人はそうそうスカウトできないので。で、寺井さんを迎えたことで、ミクニグループの急拡大に拍車がかかったわけです。東京のすべてのデパートにパティシエ部門をつくったよね。寺井さんがつくるって言うことですごい評判になった。
寺井:三國シェフの自伝『三國 燃え尽きるまで厨房に立つ』の第3章「挑戦」が、ちょうど僕がご一緒させていた時期と重なります。ほんとに挑戦に次ぐ挑戦。この本には三國シェフの挑戦がたくさん書かれていますが、本当に挑戦していたのは僕じゃないか(笑)。毎日、野球の千本ノックを受け続けているような日々でした。それもめちゃくちゃ振り幅の広いノック。
三國:寺井さんのすごいところは、僕がどんな無理難題をふっかけてもNOって言わなかったことです。8年後に寺井さんは、独立したわけだけど、最初は数人だったパティシエ部門が大きくなったよねえ、最後は何人だった?
寺井:入ったときは3人。最後は本店だけでパティシエが25人、日本全国だと100人以上でした。
三國:そうそう。だからね、僕の名声の半分はパティシエの寺井さんのおかげだったということです。
寺井:いえいえ。
三國シェフの姿が反面教師になった!?
三國:寺井さんは、こういうイベントみたいな場に出てくることほとんどないよね。
寺井:はい。三國シェフの下にいた8年の間に、メディアの怖さですとか出たことによる影響ですとか、いろいろ体験したこともあって(笑)。今は店にひきこもりまして、静かにお菓子だけをつくるような生活をしています。僕としては、うちのお店の名前とか僕の名前が広がっていくとき、その真ん中にはうちのお菓子の味があって欲しい、という気持ちが強くて。
三國:だからテレビにもほとんど露出しない。僕は露出しっぱなしだよね。その姿が反面教師になった。それだな、寺井シェフが僕からいちばん学んだことは(笑)
寺井:いや、僕のマネジメント能力では三國シェフにはなれない。自分の能力に合わせてバランスをとっているだけです。僕が学んだいちばん大きなことは、味中心のものづくりです。ここまで味を追求するようになったのは、三國シェフのところで、デザートをやりなさいと言われ、味ついて「これは違う」「ちょっとここをなんとかして」と千本ノックを受けたから。ちゃんと味に向き合いなさいと教えられたから。
三國:そう、それが、料理を出すのと同じ感覚でお菓子を出すレストラン・パティシエ。我々はあの時期にずいぶん試行錯誤したよね、それが今ベースになっている。
寺井:はい。お菓子というのは、レシピに基づいて正確に軽量して、指定どおりにまぜて、いつも同じようにいい状態のものをきちんとつくるという感覚なんです。でも料理人は、その日の素材を見て、素材に合わせて自分の感性でいい状態をつくっていく。ひと皿に対してのアプローチの仕方がまったく異なる人の姿を目の当たりにして、感銘を受けたことが、味重視のものづくりにつながりました。
三國:なるほどね。

