成人した3人の子をもち、現在は富山県でひとり暮らしをしている著述家の中道あんさん(60代)。年齢を重ねた今、日々の「当たり前」を見直すなかで気づいた、お風呂の湯量や味つけの心地よい加減。「少なめ」だからこそ満たされる暮らしの工夫をつづります。
すべての画像を見る(全2枚)お風呂は「肩までつかる」が当たり前だった
60代のひとり暮らし。「これくらいでいい」ではなく、「これくらいがいい」と思えることが増えてきました。
たくさんあれば満足するわけでも、便利なら快適なわけでもありません。
これまで「当たり前」だと思い込んでいたことを見直し、自分にとってどこまであれば十分なのか、どこから先はやりすぎなのか。その心地よい「加減」が少しずつわかるようになってきた気がします。
とはいえ、自分にとっての「ちょうどいい」は、頭で考えているだけではわかりません。
最近も、暮らしの中でいくつか試してみて、意外な“少なめ”の快適さを見つけました。そのひとつが、お風呂です。
富山に引っ越してきて、ちょっと困ったことがありました。お風呂の湯船が、ひとり暮らしには少し大きいのです。夏でもしっかりお湯につかり、手足をマッサージしたり、ぼんやり考えごとをしたりする時間が大好きです。
肩までたっぷりお湯をはってひとりで入り、そのお湯を毎回捨てる。そんなことを何日かくり返すうちに、「こんなに使うのが当たり前だと思っていたけれど、本当に必要?」と思い始めました。
入浴のあと、温かいうちに浴槽や床を洗っておくのですが、たっぷりと残ったお湯が時間をかけて排水口へ流れていくのをながめていると、水道代や電気代、資源の面でも「もったいないなぁ」とプチ罪悪感がわいてくるように。
そこで、毎日少しずつ水位を下げて、どこまで満足度が保てるかを実験してみました。
その結果、私の場合、胸の下くらいまであれば、これまでと満足度はほとんど変わらないことがわかりました。むしろ、それくらいの湯量だと長く入っていてものぼせないし、いちばん冷えやすい足はしっかり温まります。
「お風呂のお湯はたっぷり張るのが当たり前」を手放してみたら、お湯は“少なめ”で十分でした。
娘のひと言で気づいた、味つけの「当たり前」
そんな実験をしていたら、今度は娘から別の「当たり前」を指摘されました。ふたりで回転寿司を食べていたときのこと。「おしょうゆをつけすぎじゃない? もっと少なくていいんじゃない?」というではありませんか。
私はお寿司を横に倒してネタ全体にしょうゆをつけていましたが、娘はネタの端にちょんとつける程度でした。
そういえば、普段の味つけにも思いあたる節が。調理するときについしょうゆやだししょうゆを入れすぎてしまい、「今日、ちょっと濃かったな」と思う日もしばしば。
先日、娘と一緒に夕飯を食べることになり、野菜の肉巻きを焼肉風に味つけたものと、つくりおきの夏野菜の焼きびたしを食卓に並べました。ご飯をよそうタイミングで、炊飯器のご飯がお茶碗1膳分しかないことが発覚。
「あなたが食べて。私はおかずだけでいいわ」と娘にいうと、「こんな濃いおかずにご飯がなくて、食べられる?」と気にかけてくれました。
そこで私が引っかかったのは、「こんな濃いおかず」のひと言。食べる前から濃いと見えているんだなぁ。こってりした味つけを「おいしい」と思い込んでいたけれど、ごはんが中和剤になってやっと食べられる味つけだったのだとしたら、ちょっと悲しい。
そこから、調味料の「当たり前」も見直すように。煮物は控えめにして野菜はゴマあえやカツオ節あえにしたり、干物にはレモンをしぼり、納豆にはタレの代わりにお酢を使ったり。食卓から卓上しょうゆも下げてみました。
すると、調味料を減らしたことで、うれしい発見が。夏の暑さで食欲がないときの定番、おぼろ豆腐。まずはそのままひと口食べて「あ、豆の味」を感じる。そして粗塩をほんの4〜5粒パラパラとかけて食べると、大豆本来の甘みが驚くほど引き立つことに気づきました。
味つけを薄くしたら物たりなくなると思っていたのに、まったくの逆。減らしたことで、素材本来のおいしさに出合えたのです。
