「だいたい」で動く、余白ある時間の心地よさ

周辺地図や時刻表が掲示された壁
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私が滞在した国では、電車やバスの時刻表は「7時23分発」といった細かなものではなく、「この時間帯は10〜15分間隔」といった表示がほとんどです。そのため、だれもが「そろそろ来るだろう」といった感覚で、あまりあせる様子もなく待っています。

一方で、「23分に来る」と決まっていると、その時間を少し過ぎただけで「まだ来ない」と感じ、なんとなく落ち着かない気持ちになることはないでしょうか。

ほんの数分の違いでも、決められた時間に縛られることで、気持ちまで急かされてしまう。でも、“だいたい”に任せてみると、その分だけ、時間の中にゆるやかな余白が生まれるように思います。

時間を正確に区切ることで得られる安心感もありますが、少し曖昧さを残すことで生まれる心の余裕も、たしかにあると気づかされる場面です。

なにもできない時間が、だれかと過ごす時間に変わるとき

街中のベンチ

さらに印象に残っているのは、停電が起きた日のことです。

スペインで停電があったとき、仕事もできず、携帯も使えなくなり、最初は少し戸惑いました。でも気がつくと、公園に人が集まり始めていました。どこからともなくギターの音が聞こえ、大人がボールや縄跳びを持ち出し、ベンチでは会話が弾んでいます。まるで、予定された休日のような空気でした。

一方で、ジョージアでの停電は、また少し違った印象でした。

カフェでふっと電源が落ちることが時々あるのですが、だれひとりとしてあわてる様子はありません。なにごともなかったかのように会話を続け、コーヒーを飲みながら、ただ静かに時間を過ごしています。「どうせそのうち戻るから」そんな空気が、言葉にしなくても自然と流れていました。

以前の私だったら、なにもできないことに動揺し、変えられない状況のなかで、ひとり落ち着かない時間を過ごしていたと思います。「なにもできない時間」がだれかと過ごす時間になったり、静かに流れを待つ時間になったりする。そんな光景を見ながら、時間の使い方には、正解が1つではないことを感じます。

気持ちにゆとりができた「時間」の考え方

パン屋

日本にいた頃の私は、あいた時間があると埋めようとしていた気がします。時間を効率よく使うこと、ムダにしないこと。それがよいことだと、どこかで思い込んでいました。

でも今は、だいぶ考え方が変わりました。なにもしない時間、ただ座っている時間、だれかとたわいもない話をする時間。そんな時間にも、意味があると思えるようになりました。

もちろん、便利さや正確さはすばらしいものです。でも、ときに、「急がない時間」や「余白のある時間」をもつことも、気持ちにゆとりが生まれるように感じています。

海外での暮らしは、特別な出来事よりも、こうした日常の景色の違いに気づかされることの連続です。「自由時間をどう使うか」という問いの答えは1つではなく、考え方も自由です。でも今の私は、以前よりも少しだけ、時間の流れに身を任せられるようになった気がしています。