グラフィックデザイナーの西出弥加さんと訪問介護の仕事をする光さん夫妻は、夫婦ともに発達障害という共通点があります。妻はASD(自閉スペクトラム症)、夫はADHD(注意欠如・多動症)の特性をもち、お互いに心地よく暮らすため長年別居をしていたそう。そして、ここにきて同じ場所に住むことに…。妻の弥加さんにこの数年のことを振り返ってもらいました。
すべての画像を見る(全6枚)別居していた私たちが同居をするようになった理由
私たちは結婚して今年で4年目を迎えますが、つい数か月前まで別居をしていました。別居し始めたのは結婚してから半年くらい経った頃なので、今までほぼ一緒に住んでいませんでした。まず別居をしていた理由をお話したいと思います。
●もともと家事が苦手な夫と一緒に生活するのが大変だった
理由はたくさんありますが、ひとつは私の仕事形態でした。社会に出てからずっと家で仕事をしているので、できれば仕事場は一人で作業できる空間であってほしかったのです。絵やデザインの作業が多いので、一人きりで集中できる場所があるとベストでした。しかし今まで人と一緒にワンルームで過ごした経験もあったので、夫と同居しても何部屋かある所なら大丈夫だろうと思い、3LDKの広い部屋に引っ越しともに生活していました。作業場と生活する部屋で分けていたのです。
しかしそこでハプニングが連発します。これが別居した2つ目の理由ですが、夫のADHD気質が結構強く、至るところになにかが転がっていたり、こぼれていたり、壊れていたりするのです。作業場かつ生活の場である空間がどんどん荒れていきます。掃除してもしても追いつかなくなりました。夫の頭のキャパがなくなってるせいで症状も出やすくなっているのかなと思い、私は夫に「もう働かなくてよいから専業主夫になってほしい」と頼みましたが、夫は家事がまったくと言っていいほどできませんでした。次は私が専業主婦になってお世話をしようか、とも思いましたが当時の夫は仕事がまったくできません。
一生懸命がんばろうとする夫に怒鳴ることなどできず、抑え込んでいた自分が体力的に限界を向かえてしまい、倒れてしまいました。慢性貧血になって家で倒れて動けなくなったのです。「大半の主婦なら乗りきっていることなのになぜ自分にはできないのか」とずっと毎日思っていました。そしていつも夫の寝顔を見るたび、「なぜ自分は皆のように上手くやってあげられないのか」と悲しくなりました。
●一緒にいると辛いのに、離婚に逃げなかった理由
心理士や福祉士に相談したときには「奥さんがやればいい、できる方がやればいい」と言われ、なぜか相談している私が悪者かのような雰囲気で突き放されてしまいました。「できるほう」が悪者になってしまうのはなぜなんだろうと虚しくなり、それが夫にも伝わり、私以上に虚しさを感じ、悲しんでいました。
しかし私たちは離婚しませんでした。その理由は夫の精神的な向き合い方にあると思います。私がどんなに大変なときも、夫は逃げないで帰ってきました。むしろ私より私の怒りを感じとり、私よりも私の悲しさに涙していました。ここが離婚危機を向かえなかった最大の理由だと思います。結婚したことで、たしかに大変な状況になりましたが、夫は、それ以上に精神的な寄り添いをしてくれました。
●離れて暮らすことで夫は自立、私の体調はよくなってきた
当時の私たちは別居をしたくてしたのではありません。お金も大変な状況なので東京の3LDKの部屋を引き払い、親戚が住む愛知県に夫と引っ越して2人で住んでいたのです。家賃の出費も4分の1に減らし、少し狭い部屋に住みましたが、それでも大変な状況は変わらずでした。私が慢性貧血になって動けなくなったところ、友人が車で向かえにきてくれたのです。そして友人宅に長い間、私だけ居候させてもらうことに。別居はここから始まりました。
そのとき運よく夫のそばには私の親戚やその友人たち、夫ができる仕事が少しあったので、当時よりもよい状態でした。私は夫を信じて物理的に距離をとりました。そして夫は私が言ったことを忘れず何度も実践し、次第に自立していきました。そして夫は「もう家には戻ってこないで好きな場所に住んでほしい」と言いました。そこから体力が戻った私は一人で東京に住むことにしたのです。
このとき東京に住んだ理由は、私がそばにいて共倒れするより、東京に戻って稼いだお金を夫に送る方が互いに助かると思ったからです。そして私たちは長い期間、別々に住み、年に数回会う仲になったのです。