「簡単にものが捨てられない理由」を考えてみた

あじさい
あじさいは母が好きな花です
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終活についての意識は、人それぞれ。父のようにきっちり片付けをしようとする人もいれば、先延ばしにしてしまう人もいます。やりすぎても切ないし、放っておけば残された人が困る——そのバランスが終活の難しさなのでしょう。

きちんと片付いた部屋は気持ちがいいですが、思い出のつまったものが少しずつ減っていくのは、それに関係する人の「生きてきた証」が薄れていくようで、私はどこか寂しさを感じてしまいます。

母が着ていた服、両親が旅先で買い求めた小物、以前の家に飾ってあった絵画。それらは、時間とともに「もの」から「かけがえのない存在」になっていきます。

私は父のような潔さに憧れる一方で、ものの処分が下手だと自覚しています。自分ひとりで買ったものは捨てられるのだけれど、だれかとの思い出があるものはなかなか捨てられないのです。

いや、着々と片付けをすすめている父でさえ、自分では処分できないものもあるようです。

終活とは、日々の生き方を意識することなのかもしれない

人生の最期に必要となるものは限られています。とてもおしゃれで華やかだった母でさえ、今では服やアクセサリーに無頓着。悲しいけれど、それが現実です。終活とは、ものの片付けを通して、人生後半戦の過ごし方を考える時間なのだということを、父の姿から教えられました。

のこされた時間を使ってなにをするか、どう生きるか、やりたいことにどう優先順位をつけていくか。人生の終わりを整えることは、よりよく生きるための第一歩だと感じました。

50代の私だって、いつなにが起こるかわかりません。終活と名づけるには早いかもしれませんが、この先の人生をどう生きてなにをするかを意識するのに、早すぎることはないはずです。

必要十分なものに囲まれつつ、できること、やりたいことに妥協せず、着々と行っていく。そんな人生こそが美しいと感じたお墓参りでした。