40代で決断した「距離をおく」こと。離れて見えた自分の弱さ

40代前半頃の川上麻衣子さん
40代前半頃の川上麻衣子さん
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40代を過ぎた頃には、違和感を感じる煩わしいつき合いできる限り断ちきりたいと、行動に移したこともありました。

苦手な雰囲気を醸し出す人と過ごすことで生じるストレスは思いのほか、自身をむしばんでいくことに気づいた40代。決して失礼にならないよう気を配りながら、それでもしっかりと距離をおくことをよしとしました。

その決断が正しかったのか、本当のことはいまだわかりませんが、その出会いを含めて、なにひとつ無駄なことは人生において起きてないことだけは今、確信しています。

離れることから見えた、自分の弱さ、ずるさも結果、知った気がします。

自分自身を見直すきっかけにもなった

「人は一方向からだけでは決してその人の本質をとらえることはできない」。そんな当たり前のことに気づけなかった若い頃。

60歳が近づいてようやく、一見苦手と思える人ほどじつは信頼できる人であることが多いことを感じています。

愛想よく、場の盛り上げ方も上手な器用な人には、つい惹(ひ)かれてしまいますが、その調子のよさからくる、乱暴な態度に傷ついた過去があるからです。

これは、私にとって大きな教訓となり、その場の雰囲気で話を合わせるお調子者に成り下がらないよう、自分を律するようになりました。

ときは流れ、さまざまな出会いは繰り返されて、人生の後半に入ります。

音沙汰ない人も「生きていてくれる」ことが証

「いつまで待っても来ぬ人と、死んだ人とは同じこと」

坂本冬美さんの歌の有名な歌詞の一部ですが、初めて耳にしたときには、なんと斬新で言い得た表現かと溜飲が下がる思いになりました。

果たして60歳を前にした今。音沙汰なく過ごしているすべての出逢いが愛おしく思えている事を実感している自分がいます。

いつまで待っても来なくても、あなたがどこかで生きていてくれることが、わたしの生きてきた証。なにが起きるかわからない残りの人生。生きてさえいれば、またどこかで偶然巡り会い、出会えた喜びを分かち合える日が来るやもしれません。

若い頃、人生の到達点があまりに遠く、無限に広がる可能性を求めて、がむしゃらに戦い挑み、競い合っていた時期には見えなかったたくさんの奇跡のカケラたち。

今この場所で、自分が存在していることは、じつは奇跡の連続だったのだと言うことが、少しずつ分かり始めた年頃です。

自分ひとりの小さな思いだけでは、なにひとつ変えることはできないと諦めるのではなく、すべては結びついているのだと考えると、ほんのわずかな願いであっても、いつか大きな力に変えられるはずだと勇気が湧いて来ます。

新しい今日という日が感謝と優しさに包まれますように。

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