サービス業の丁寧なおもてなしが有名な日本。では、ほかの国はどうなのでしょうか。イタリア人の夫と2人の子どもとイタリアに15年住み、noteやXでイタリアの暮らしを綴ったイラストエッセイが話題のイラストレーター・マンガ家のワダシノブさんは、日本から帰国するたびにイタリアでの雑な扱いが気になるそう。けれども、「その雑さによって快適に過ごせることに気がつく」と話します。その理由をワダさんが教えてくれました。
すべての画像を見る(全5枚)繊細なサービスの日本と雑なイタリア
コロナ禍以降は、なかなか帰省できずにいるけれど、以前は毎年のように日本に帰省していた。
日本からイタリアに戻るたびに、イタリアで普通とされる感覚を取り戻すまでに少し時間がかかっていた。日本の繊細なサービスに慣れると、イタリアではちょっとしたことが雑で気になるのだ。
たとえば、スーパーの店員に投げるようにものを渡されたとき。常連なのか友人なのかわからないが、私の前に並ぶ客と楽しそうに話していた店員が、私の番になったとたんに笑顔がなくなり、冷たい対応になったとき。何度呼びかけてもお店の人が来ないとき。
こんな目にあうと「ああ、日本のサービス業の人たちはやさしかったな」と、日本が恋しくなる。完璧なラッピングに、「ネギは折ってもよろしいですか?」と些細なことでも聞いてくれる世界。遠慮なくばんばんと置かれる牛乳や洗剤を、まるで早詰めレースのように急いでショッピングバッグに詰めながら、そんなことを思うのだ。
丁寧さから離れると楽になることに気がつく
とはいえ、イタリアで2日も過ごすとこの雑な対応にも慣れ、これはこれで居心地がよくなる。相手に丁寧さを求めないということは、自分も丁寧さを求められないということだから、お互い適当に過ごすことができる。
ここの人たちの雑な感じは単に大雑把なだけで、基本的に悪気はない。あまり細かいことを気にしないだけだ。日本で「普通」として求められるものが、よくも悪くも高水準で丁寧すぎるのだ。
その丁寧さから離れてみると、かなり楽になる。スーパーの店員のお辞儀なんて別にいらないなぁと気がつく。それに、私の声が無視されがちなのは、ただ単に日本水準の声の大きさだとイタリアでは小さすぎて気づいてもらえないだけ、ということもよくある。そしてイタリアの水準に合わせていくうちに、声が大きい大雑把な私が誕生するのだ。
丁寧な扱いにはお金がかかる国
だいたいにおいて、ここでは丁寧な対応を受けるためにはお金がかかるのだ。サービスを受けたい人はその分お金を多く払うという考えが一般的だから、丁寧に扱われたければ、お金を多く払って丁寧なサービスを受けられる場所に行けばいいだけだ。
もちろん、安いからといって意地悪をされることはないけれど、支払う金額に応じてお店から客への対応が変わるのは当たり前だ。紙のランチョンマットのファーストフード店と、テーブルクロスが敷かれたレストランで料金が違うように、丁寧な扱いには相応のサービス料が必要なのだ。