メールの「ご飯行きましょうね」は本気にしていい?
すべての画像を見る(全4枚)ある日、お隣さんと立ち話をしていたときのこと。
「メールの最後に『また時間できたらご飯いきましょうね。』って書くでしょ。あれって社交辞令らしいですよね。私、『いつにしましょうか』って速攻メール返しちゃってた。それでご飯行ってましたよ。あれ迷惑だったのかなあ」
「確かに、そこんとこの温度感ってさまざまでしょうねえ。時間なんて作らないと永遠にないし、あるといえばなんぼでもあるし。どっちかが言い出さないとはじまらないから、ええと思うけどなあ」
ズボラな私は、こういうマメな人がいてくれることを、心底ありがたいと思うもの。
「でも相手は、めんどくさーとか思ってなかったですかねえ」
「思ってないですよー。思ってたら社交辞令でもそんなん書かないでしょ」
「じゃあ、また今月どっかで飲みに行きましょうね、社交辞令じゃなくほんまに」
と言って、私たちはそれぞれの家に入った。
一時間もしないうちに、ブーッとスマホが震えて、彼女から、
「何日と何日だったら行けそうだよ」とLINEが来ていた。
「私もその日いけますよ」と返事をして、彼女がさっそく予約をしてくれた。
今その人に会えば、今の喜びがあるはず
「また今度ご飯行きましょうね」
ほど、果たされぬ約束はない。しかも私達はみんな確信犯だ。
自分は会いたいなと思っていても、相手がどう思っているかわからないもの…というのは言い訳で、忙殺される日々の中で消えてしまっているだけなんだと思う。
特に、久々となると色んな意味で勇気がいるから後回しにしがちだ。会わなくても支障はないし、思い出の中だけで存在する方がいい関係だってあるだろう。
でも、それは会ってないから思うだけで、今会えば今の喜びがあるに違いない。その逆を恐れて、一歩踏み出せずにいるのかもしれない。
ご近所さんはたくさんいるけど、立ち話以上に親しくなったのは彼女だけだった。それは、社交辞令だったかもしれない言葉を、終わらせなかった彼女の行動力の賜物だ。
子どもの頃なら、今日会ったら明日も明後日も、約束なしで遊んで約束なしに友達になっていた。温かくなると、あの子元気かなあと思い出す顔がある。
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