7月10日より、民法改正により「自筆証書遺言書保管制度」という新しい制度が始まりました。
「従来、自筆で書いた遺言書は、原則として手許で保管するよりほかなく、自身で失くしたり、また利害関係のある人に隠される、破棄されるリスクがありました。しかし、本改正により、所定の法務局で自筆の遺言書の原本を保管してもらえることになりました」というのは、相続の問題に詳しい司法書士の鈴木敏起さん。
今回は、美奈子さんという方を事例にして、本制度の使い勝手について教えていただきました。
母が兄との同居を解消。「遺言書を書き直したことを知られたくない…!」
自筆証書遺言書保管制度では、遺言書を「安全な場所で保管する」という点のほかにも、自筆の遺言書のデメリットを克服する仕組みがいくつか整備されました。さらに、公正証書の遺言書にもない独自の仕組みも整うようです。
このことによって遺言書の作成はどこまで身近になるのでしょうか。
●兄が母に書かせた遺言を修正したい。でも母はもう公証役場はコリゴリ…
美奈子さんは50代の主婦。夫や子どもに賛成してもらい、母を引き取って一緒に暮らすことになりました。
父が5年前に逝去し、母も老いて一人での暮らしが心配になるなか、2年前に母を最初に引き取ったのは兄夫婦でした。しかし、母と兄嫁との折り合いが悪くなり、今回、美奈子さんが母を引き取ることになりました。
兄夫婦が母を引き取った際、兄は母に公正証書の遺言をつくらせました。母が住んでいた自宅を含めて、母の財産のほぼすべてを兄が相続する、という内容。
母は、美奈子さんにも財産を遺してやりたいと思っていたようでしたが、同居する兄の圧力に屈し、公証役場にて遺言を作成しました。
その際、公証人は母の意向を確認するためにいろいろ質問してきたのですが、美奈子さんにも一定の割合で財産を遺してあげたいとする気持ちは押し殺し、母は兄の望む遺言内容を公証人に告げました。
これが母にとって大きなストレスとなり、トラウマになったようです。
現在、美奈子さんと同居する母は、美奈子さんのために遺言を書き直したいと考えてくれていますが、公証役場には行きたくないと言います。
そこで、美奈子さんは自筆の遺言書について、調べてみました。
●公証役場に行けない、行きたくない。そんなときの自筆の遺言書のデメリットとは?
美奈子さんは、昨年(2019年)参加した相続セミナーで配布されたガイドブックを手に取ってみました。該当ページを開くと、公正証書の遺言と、自筆の遺言との違いがよくまとまっています。
美奈子さんは、自筆証書遺言のデメリットの欄に注目しました。
「やはり、遺言は自筆より公正証書のほうがいいのかしら」
ひとりで考えていても仕方ないので、地元のS司法書士事務所に相談することにしました。不安に思っていることと、S司法書士の回答をまとめます。
●(1) 自筆の遺言を兄が見つけた場合、破棄されてしまわないか
母が公証役場に行きたがらないので、自筆の遺言を検討している。でも、自筆の遺言は失くしてしまわないか、もしくは、兄が万が一見つけた場合、破棄されてしまわないかと心配です。
S司法書士の答えはこうです。
「法務局による『自筆証書遺言書保管制度』を利用すれば、所定の法務局で自筆の遺言書の原本を保管してもらえるため、紛失・破棄リスクはなくなります」
・参考:
法務局における自筆証書遺言に係る遺言書の保管制度の概要●(2) 後から書いた遺言が、認知症を理由に否定されないか
母も年齢相応の衰えが見られるため、後から書いた母の遺言が、「認知症」を理由として否定されることはあるのでしょうか。
「たしかに、自筆の遺言の場合には、お兄様からしてみれば、同居する美奈子さんが無理やり遺言を書き直させたと主張したくなる可能性は高いです」とS司法書士。
「しかし、遺言書保管制度においては、遺言者本人が法務局に出頭して保管申請を行うことになっていて、その際、遺言書保管官が顔写真つき身分証明書で本人確認をします。
そして、遺言書保管官は、本人に対し、保管申請の意思確認はするので、まったく訳も分からない状況で母が遺言を書かされた、ということはないと『事実上』推認されるでしょう。
また、一般には、自筆証書の遺言は、形式不備で無効となってしまう可能性があることもデメリットのひとつですが、遺言書保管制度においては、保管申請された遺言が法律様式に則らないときは、申請を却下するとされているので、『事実上』形式不備による無効リスクは少ないと考えられます」
S司法書士によると、「事実上」という表現が強調されているものの、本制度の仕組みが、自筆証書遺言のデメリットをかなり減らしているということでした。
●(3) 母に新たに遺言を書かせたことが、兄に知れることはないのか
美奈子さんは、じつはここが一番心配です。遺言書を法務局に預けたのち、預けたことを法務局が相続人に知らせたり、遺言の内容を相続人が確認できたりすることはないのでしょうか。S司法書士は答えてくれました。
「遺言書の保管申請をしたのち、遺言者には次のことが認められています。
ア)預けた遺言書を見る(遺言書の閲覧)
イ)預けた遺言書を返してもらう(保管の撤回)
逆に言えば、遺言者本人以外の家族等が、遺言者の生前において、遺言書を閲覧したり、遺言書を取り戻したりする制度はありません」
・参考:
遺言者の手続母の生前に兄が遺言書を確認する方法はないということで、安心しました。
公正証書遺言も、遺言者の生前においては遺言者自身のみ謄本請求ができることとされており、同様の情報管理基準と言えます。
●(4) 母が亡くなったとき、手続きが遅れて兄に先を越されることはないのか
相続セミナーのガイドブックでは、自筆の遺言書は、手続きに使用するには家庭裁判所の検認が必要とされています。一方、公正証書遺言は検認不要です。
うかうかしていると、兄に先を越されて、公正証書遺言の内容を実現されてしまうかもしれません。
S司法書士は、順序だてて次の通り説明してくれました。
「まず、美奈子さんが、遺言書の内容を実現する手続をするには、『遺言書情報証明書』の交付を法務局にて受けることになります。本証明書を使って、不動産の名義変更や、金融機関の手続きをします」
しかしここで、本制度特有の仕組みがあります。美奈子さんが遺言書情報証明書の交付を受けると、遺言書保管官は、交付を受けた人以外の相続人に、法務局で遺言書を保管している旨を通知するということです。この時点で、兄に知れてしまいます。
美奈子さんの心配を見透かしたS司法書士はさらに続けました。
「じつは、遺言書保管制度を利用した自筆証書遺言の場合、家庭裁判所の検認手続きがいらないのです。そのため、遺言書情報証明書の交付を受ければ、すぐに手続きに利用できます。
また、厳密には、お兄様に先を越されても、後から書いた遺言の効力のほうが有効ですから、お兄様の手続きはのちに取り消すことができます。
ただ、取り消すにも裁判を起こすなど大きな労力が要りますから、すぐに手続きができるのに越したことはありません」
・参考:
相続人等の手続(いずれも、遺言者の逝去後にできる手続き)遺言書の有無の確認、遺言書の閲覧、遺言書情報証明書の交付請求
●遺言書保管制度で心配ごとはほぼクリア!
S司法書士に相談した結果、母の遺言は、自筆証書でも遺言書保管制度を利用すれば、美奈子さんの心配ごとはおよそクリアになることがわかりました。
7月10日に始まったばかりの新制度ですが、そのポイントについて、いち早く情報が得られて、美奈子さんはほっとしたところです。
実際には、まだまだ細かい手続き上の注意点があるらしいので、引き続き、S司法書士に相談を続けることとしました。
同居をしないのに母の財産ほとんどを相続するという兄のつくらせた遺言書。不公平な遺言書をリスクの少ない方法でつくり直せると知って、母も美奈子さんもほっとしています。