「減らす力」を手に入れれば本当の価値がわかる

やっとこ鍋
「有次」のやっとこ鍋。いちばん大きなサイズはタケノコなどをゆでるときに。小さなものは絹サヤなどをゆでて。入れ子式にしまえるので、場所を取りません
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鍋にゴマ油を熱し、豚バラ肉を入れて炒めたら、タマネギと皮をむき面取りしたメークインを放り込みます。肉ジャガはわが家のテッパンおかず。使うのは、30年ほど前に京都の「有次」で買ったやっとこ鍋です。取っ手がなく、ヤットコと呼ばれるペンチのような形の道具で持ち上げるこの鍋は、入れ子式で、6つのサイズがあり、しまうのに場所を取らないのがいいところ。

当時「京都に暮らしの道具を買いに行く」という初体験にワクワクして、銘を刻んでもらった鍋を大喜びで抱えて帰ってきました。

おかずができると、食器棚の前に立ってどの器にしようかと考えます。肉ジャガなら直径30cmほどの小鹿田焼の鉢に。こんなふうに毎日調理道具や器を使いながら、「たぶん、もう一生新しいものを買わなくてもこれで生きていけるな」と思います。

若い頃、どうしたら「センスがいい人」になれるんだろう? とずっと思っていました。私が自分の身の丈以上の器や調理道具を買ったのは、ものが欲しかったというよりは、「それを使っている人」と同じ暮らしの風景を見てみたかったのかも。

でも、正直に告白するならば、作家さんの個展に出かけて1枚の器を選ぶとき、それが本当に「いい」と思っていたかどうかは、はなはだ怪しいのです。「自分だけのものさしをもたなくちゃ」とよく耳にするけれど、どうしたらものを見る目を養うことができるかなんて、皆目わかりませんでした。

わけがわからないまま買って、それを持ち帰って家で料理を盛り、食べて、洗って、しまって…をくり返す。でも今になって、それがいちばんたしかな方法なんじゃないかと考えるようになりました。毎日使ううちに、だんだんその使い心地を手が覚えていきます。そしてその手の感覚が、次になにかを選ぶときの道標になってくれる。

作家さんがつくった粉引の器と、100円ショップの白い器の違いは、その手触り、重さ、料理を盛りつけたときの表情と、日常で使い続けた時間が教えてくれます。

最近では、ミニマムな暮らしが流行り、「やめる」や「減らす」暮らしが注目されています。でも、それは「やった」から「やめられる」のであり、「増やした」から「減らす」ことができるんじゃないかな。最初から2枚しかお皿をもっていないのと、10枚もっていて少しずつ減らして2枚にしたのでは、同じ2枚でも、そのお皿の価値は変わってくるのだ
と思います。

自己価値について、こんな話を聞いたことがあります。たとえばペットボトルの水があるとして、それにどれぐらいの価値があるか? 普通なら130円ぐらいの価値だけれど、それを砂漠で自販機もなく、喉がカラカラなときなら、1万円、100万円の価値になる。つまり、価値は、周囲の環境との相対的な関係性によって決まると…。

だとすれば、「センスがいい」の「いい」も、自分ひとりでは成立せず、比較対象がいてこその価値なのかもしれません。姿の見えない「だれか」と比べたら、いつまでたっても「なにがいいか」は見えてきません。私たちが唯一できることが、「過去の時間」の中との比較検証なのかも。今、老後に向けて器を少しずつ減らすとしたら、きっと私はサクサクと「いる」「いらない」をジャッジできる気がします。

それは、使い続けてきた日々が教えてくれるから。歳を重ねると、やっと自分の歩いてきた道の確かさを実感できるようになります。「正解」か「不正解」かというまぼろしを手放したとき、人は自然にものを「減らす力」を手にできる気がしています。

表紙

最後の答えは、きっと暮らしの中にある。

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