表通りに店を構えるも、お客さまは来なかった
すべての画像を見る(全4枚)店を始めて6年目。「古道具坂田」を出て、目白通りに、「mon Sakata」の店を出しました。もっとやりたいことが増えたのです。なにかに突き動かされるように、物件を探して契約を結び、勢いで出店しました。資金は借りるしかありません。手もちのお金と信用組合からの借入れ、保証人は坂田(夫)が引き受けてくれましたが、返済するのは私ひとりだけです。私が表に出たいと言ったのですから当然のことです。
当初、以前からのお客さまと「古道具坂田」からお客さまが立ち寄ってくれる程度で、「よかった、今日は数千円売れた!」という具合。借金と家賃を支払うために、最初こそ細かく数字を記録していましたが、途中からはもう考えない。それでも、なんとか借金は減っていき、十数年後に完済したときには、心底ほっとしました。これで、ようやく私のお給料が出せるわと。
あのとき、なぜそこまでしなければいけなかったのかと、今でも不思議に思います。若さ? 本能? たまっていたマグマの爆発? はっきりしているのは、当時の私には、あの決断が絶対必要だったということです。子育てもあり、母の力を借りることになりました。ありがたいのひと言です。
その頃、三宅一生、川久保玲、山本耀司たちが国際的にファッション界をリードしていました。
ターニングポイントは「アジアの風」展
知り合いのギャラリーから、そのお誘いがあったとき、「えっ、私でいいの?」と驚きました。1990年、高島屋で開催された「アジアの風」展への参加です。私はとくにアジアを意識していたわけではないし、聞けば、参加者には大御所の名前がずらりと並び、私はと言えば、催事はほとんど未経験。でも、せっかくの機会です。ドキドキしながら参加を決めました。出品作は、その頃手がけ始めていたニットでした。
当時、ずるっと引きずるような長い丈、ビッグなファッションが流行していました。「mon Sakata」もワイド、ロングで今よりずっと落ち着いたニットばかりでした。その頃は、日本の素材、ムシロとか、織物をイメージした編み地を目指していました。染めは自分で。
色々なジャンルのクリエイターが集まった会場はものすごい熱気で、沸騰するアジアと言われた時代の息吹を、物づくりの最前線で体感できたことは、私にとって重要なターニングポイントになりました。「ニットならできる」との自信を得て、「mon Sakata」の可能性が見えてきたのです。地方のギャラリーからのオファーが増え、各地で展示会が増えていったのも、ここからです。
ほかにも、『いつもスタートラインにいる私 78歳、糸好き・布好き・服が好き』(KADOKAWA刊)では、坂田さんのシンプルであか抜けたおしゃれの秘訣、店を続けるということ、「古道具坂田」の店主であった亡き夫との暮らし、いま、大切にしていることなどを美しい写真とともに紹介しています。

