8月15日は日本における終戦記念日。世界で紛争などが起きていることで、より戦争が身近に感じられるようになりました。昨今、戦争体験を伝える人が増えており、注目されています。ここではESSEonlineのインタビューに戦争体験を語ってくれた人たちを紹介します。

関連記事

被爆体験をツイートし、話題の92歳。SNSを駆使して伝えたいこと

105年、現役理容師の箱石シツイさん。戦争でいろいろなものを失い、わかったこと

日本最高齢理容師・箱石シツイさん(105歳)は、鮮やかな手つきでお客さんの髪を整えます。「体が動く限り、仕事を続けたい」。そう語る、シツイさんは戦争経験者です。

シツイさん
箱石シツイさん(105歳)
すべての画像を見る(全6枚)

若いころは、浅草にあった、大きな理髪店に勤めていたシツイさん。

「私みたいな住み込みの従業員もたくさんいてね。普通は5年の年季奉公と1年のお礼奉公、6年は住み込みで働いて技術を学ぶんです。でも、私は実家からお米やらお布団やらを送ってもらってましたから、奉公先も助かったんでしょう。3年で修行を終えたんです」

その当時のお小遣いは、1か月30銭。仲間たちが遊ぶ間も道具(ハサミやカミソリ)の手入れをするなど、コツコツと努力を続けました。
やがて、同じく理容師の夫と結婚。夫婦は新宿区落合に店を開きます。子どもも2人、授かりました。順風満帆に見えた時、第二次世界大戦が勃発。夫は長男の英政さんが生後10か月のときに、出征しました。

「空襲がひどくなってきて、子どもたちのためにも疎開することにしたんです。栃木の実家に疎開の相談をしに戻ったら、その夜に東京大空襲。店も家も焼け落ちて、帰る場所もなくなりました。子ども2人抱えて、命が助かっただけでも幸いだと思わなくちゃ」

終戦を迎えたものの、夫は戻らず、生活は苦しいまま。栃木で理髪店を開きましたが、地元に古くからある同業者からは歓迎されず。栃木県では免許を取っていない、と指摘され、改めて試験を受け直すなどの苦労をしました。

免許証
理容師免許の資格手帳。東京と栃木と、2回試験を受けたので2冊持っています。東京で取得したとき(昭和初期)の発行元はなんと警視庁!「当時、かみそりは日本刀と同じ扱いだったんです」

「一時期は、子どもたちと一緒に死のうとさえ思いました。でも、家族が支えてくれましたからね。夫は8年待ったけれど、結局戦死公報が届いて。なんとか店を切り盛りするうちに、ここでもう70年以上続けていますよ」

この記事を詳しく読むにはこちらから

大正5年生まれ、現役理容師おばあちゃん。日々の食事と運動が元気のもと

93歳の森田富美子さん。被爆者だからこそ強く伝えられること

毎日の健康管理はスマートウォッチとアプリで。ツイッターのつぶやきは、日に2度、3度。30代、40代の人の話じゃありません。ツイッターアカウント『わたくし93歳』(@Iam90yearsold)こと、森田富美子さん(93歳)。

森田富美子さん

「ツイッターは、10年以上前、まだLINEがなかったころに、鍵アカ(鍵をかけたアカウントのこと。特定の人の間でしか読めない設定)で家族間の連絡用に使っていたんです。でも、母が『どうしてもツイッターで世の中に言いたいことがある』って言い始めて。それで2018年に、公開用のアカウントを開設したんです」
そばにつきそった、娘の京子さんがそう解説してくださいました。

富美子さんは昭和4年、長崎県生まれ。戦争に青春時代を奪われ、爆心地から10キロほど離れた軍需工場で『報国隊』として働いていたとき、原爆が投下されました。当時富美子さん16歳。鶴鳴女学校(現鶴鳴学園長崎女子高校)の生徒でした。その一瞬で、両親と幼い弟たち3人を失ったのです。

「自宅から500mほど東にあった防空壕に2歳下の妹がいました。数日前、機銃掃射にあった妹は恐怖から表に出なくなっていました。妹は怪我も火傷も負ってはいませんでしたが、被曝によるダメージは強く受けており、50代で亡くなりました」

ツイート
森田さんのツイートが瞬く間にSNSで広がりました

「学校には毎日行くけれど、行っても授業などありはしません。『報国隊』ってね、軍需工場で戦争の後方支援のために働くんですよ」

その日は快晴の夏日。早朝から電車と船を乗り継いで、香焼(こうやぎ)島(現在は埋め立てられて地続き)にあった造船会社の工場で作業をしていました。
爆心地から約10キロ。級友たちと歌を歌ったりして談笑していると、突然『どーん!』という音とともに、猛烈な風が吹き込んできました。爆風です。富美子さんたちはとっさに伏せたといいますが、ありとあらゆるものが工場の奥に吹き飛ばされるのを見ました。

「長崎が燃えている!」

誰かの声に丘に駆け上がって自宅の方を見ると、家のある長崎市内から大きな煙が立ち上っているのが見えます。
長崎市内へと渡る船に飛び乗り、とにかく自宅を目指しました。陸に上がると駅方面は火事の熱が激しく、自宅がある北側へは進めません。防火用水をバケツに3杯かぶり、北西へと山伝いに進みました。ようやく自宅にたどりついた時には翌日になっていたといいます。

「一本だけ残った門柱に、メガホンを持ったままもたれかかって立っている、黒焦げの父。部屋があったところには、母が三男をかばうように抱きかかえたのだと思われる、小さなクッション大の真っ黒なかたまり。茶の間の黒いかたまりは次男。それぞれ、5cmほどだけ焼け残った、衣服の布切れでわかりました」

想像すらできないほどの地獄絵図だったことでしょう。富美子さんはたったひとりで、家族の遺体を集め、その場で荼毘に付しました。

「誰もが親を失い、子どもを失い、全員が遺族。私だけじゃなかった」
火葬しながら、両手にはべっとりと、ドス黒い血のりがつきました。

「家族が残したのはこれだけだと、手のひらを強くすり合わせ、体の中にすり込みました」

この記事を詳しく読むにはこちらから

被爆体験をツイートし、話題の92歳。SNSを駆使して伝えたいこと