本日2020年1月17日は、1995年に発生した阪神・淡路大震災から25年目の節目の日です。

ここでは、当時、実際に震災を体験したESSE読者の声を集めました。
当時の被害の大きさを感じるとともに、防災意識を高める一助になるはずです。

倒壊した三光ビルディング
阪神淡路大震災で倒壊した三光ビルディング
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阪神淡路大震災を実際に経験して…みんなで力を合わせて復興へ

●鉄骨丸出しの体育館で卒業式

小学6年生で、兵庫県明石市の東端に住んでいました。
家はつぶれませんでしたが、瓦は全部落ち、柱もズレたため、全壊判定を受けました。

近くの道路の地下に埋められたガス管が破裂して、火が道路を横断していたのが忘れられない光景です。
避難所の小学校は、校庭に亀裂が。体育館の内屋根も全部落ちて鉄骨丸出し。そんな学校の片づけをして、3月にその体育館で卒業式をした。なんとも言えない感情で、涙が出たのを覚えています。

震災以来、最低限の備蓄を欠かさないようになりました。
(Mさん・36歳)

●「関西に地震は来ない」と思い込んでいた

23歳で、神戸市垂水区に住んでいました。
被災したのは、7か月の長男の授乳が終わってウトウトしていたとき。遠くから地鳴りがドドドド~ッと近づいてきた恐怖は今でも忘れません。心の準備ももちろんなく、すごい揺れとものが倒れるなか、訳もわからず息子の上に覆い被さって守るのに必死でした。

近くの実家は半壊、芦屋の祖父母宅は全壊でした。幸いわが家は壁にヒビが入ったり、ものが倒れたり壊れたりはしましたが、水道が使えてガスもプロパンだったので、実家の両親や友達がお風呂に入りに来たりしました。

しばらく、交通機関もマヒし、お店も閉まったまま。同じアパートの方が田舎に帰ったときに、食料品を仕入れて配ってくれて、とても助かりました。
当時は「関西には地震は来ない」と思われていた時代でしたが、「災害はどこでも起こりうる。他人事ではない」という考え方に変わりました。
(Sさん・48歳)

●重苦しい空気に全身が凍りついた

当時私は30歳で、兵庫県在住でした。
祖父宅は全壊。炊き出しのため、ずっと現地へ行きました。また半壊のお家で生活されている方々に、ご用聞きに回るボランティアも行いました。
今でも、最初に現地へ行ったとき、きな臭さや重苦しい空気に全身が凍りついたことを覚えています。
(Yさん・55歳)

●水の復旧まで2週間

当時は16歳で、兵庫県明石市在住でした。自宅の基礎が落ちて、半壊になりました。電気やガスは比較的早く復旧しましたが、自宅が高台にあったため、水圧が足りず、復旧まで2週間かかりました。

翌年が大学受験年でしたが、入学した大学は被害が大きかった地域だったこともあり、本校舎が建設中で、入学した1年間は仮設校舎で講義を受けました。神戸の復興と共に、学生生活を送ったとも言えます。
(Yさん・41歳)