人生の終え方とは。95歳の父の姿を見て思う、記憶と命の尊さ

若かりし頃の川上麻衣子さんの父
若かりし頃の父
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いつの日か、私にも壊れてしまう恐怖と闘う日が訪れるのでしょうか。それほどまでに長くは生きたくない、と思う気持ちもあり、それと同じくらいに、命をまっとうしたいという思いもあります。

まだまだリアルに想像することは難しいですが、必ず人にはそれぞれに、命を閉じなければならない瞬間が訪れます。必ず終えなければならない命であるならば、なぜ人は生まれてこなければならなかったのか。

95歳の父と過ごしながら、その答えは、すべての人々の記憶の中にあるのではないかと考えるようになりました。

今朝、食べたものはもう忘れてしまったかもしれないけれど、何十年も前の記憶は鮮明に覚えている、というように、生きてきた過程の記憶は無限に広がります。

そしてだれかの記憶の中にもまた、それぞれの記憶として、自分の存在が片隅であったとしても、爪跡を残しているはずです。

60歳からの人生を思い、少しでも豊かな時間を過ごしたい

生まれたばかりの頃、父との写真
生まれたばかりの頃、父とのひとコマ

生きている一生の長さではなく、たとえ短かったとしても、この世に生命を受けたことが、それだけで、すでにかけがえのない存在なのだと感じています。このかけがえのない奇跡に満ちた世界の中で、豊かな時間をどう過ごしていくのか。

豊かな時間の記憶をいかに自分の心と体に植えつけられるのか。

今見ているこの景色が、私の記憶となっていくのだと思うと、若い頃とはまた違う味わいでこの世界が見えてくるようです。

終わりがあるからこそ美しい、60歳からの人生。どんな未来が待ち受けているのかは、この年になってもまだわからないことばかりですが、しっかりと生きたいと思う50代最後の年末です。

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