作家・作詞家として活躍する高橋久美子さんによる暮らしのエッセー。今回つづってくれたのは、緊急事態宣言が解除になり、外に出て感じたこと、そして季節の梅との出合いについてです。
第21回「ちょっとずつ外へ」
●気持ちのいい初夏。夫と散歩
網戸をすり抜ける風を頬に感じながら、ソファーに座って本を読む。なんて気持ちのいい季節だろう。一年がずっと初夏だといいのにな。緊急事態宣言も解除になり、少しずつ外を歩くようになった。2か月ぶりに電車に乗って打ち合わせに行った。いつもと変わらぬ車内。まるで長い長い夢を見ていたんじゃないかなと思う。でも、みんなきっちり一席分距離をとって座っているし、中づり広告には「リモートワークのお手伝い」の文字。どうやら世界は少し変わったらしい。
5月中頃のある日曜日、夫とマスクをつけたまま近所を散歩していた。桜の木は青々と茂り、空いっぱいに腕を伸ばしている。太陽の日差しと風を浴びて、カチコチになっていた心が柔らかくほぐされる。やっぱり私たちには外が必要。そんなに遠くまで行けなくても、ぶらっとできるだけで、充分にリフレッシュできる。
近所の駅辺りに来ると、店内ではまだ食べられないとあって、お店の人たちが店頭で出店風にテイクアウトの商品を売っている。ちょっとお祭りみたいで楽しい。私たちと同じようにぶらっと外に出てきた人々は各店の屋台を見比べて、から揚げや、ホットケーキを買っている。
夫に「いくらある?」と聞くと数百円だ。「そっちは?」と、私も数百円。散歩と思って、お金をほとんど持たずに出てきてしまった。じゃあ一つしか買えないねということになって、何を買おうかと物色する。から揚げって気分じゃないよねえ、ホットケーキも今じゃないかなあ、ピザにする? あ、ピザはお金たりないわ。こんな調子で小銭を握りしめたまま、とうとう店の並びが終わってしまった。ああ、優柔不断…結局なにも買えずに家近くまで帰ってきた。
●そのまま帰ろうと思ったら…近所で梅との出合い
まあいいか、帰って昼ごはんつくろうね。と話しながら近所の小さな社をお参りしていると「あ、梅だ」と夫が言う。ほんとだ、足元に丸いピンポン玉より少し小ぶりなのが転がっている。あっちにもこっちにも地面が梅で埋め尽くされているじゃないか。
実家の愛媛でもよく梅を拾いに行っていたけれど、梅が熟れて落ちると、とんでもなくいい香りが漂ってくるものだ。でも、全然匂ってこない。持ち上げて匂ってみるも、あれえ? 何の匂いもしないぞ。それに、小さいしカチカチだし何より色が青すぎる。落ちている梅ってもっと熟れて黄色や薄桃色になっているもの。うーむ、多分熟れて落ちたんじゃなくて、こないだの強風で落とされたんだなあ。
土地の管理をしている方が近くにいたので拾っていいか聞いてみると、どうぞどうぞと言ってくれたものの「これ食べられるかなあ? おいしくないんじゃない?」と夫。確かにまだちょっと早いよねえ。「まあ、なんとかなるよ。さあ拾って拾って!」私たちは小学校の帰り道みたいにせっせと梅を拾い、トートバッグに入れて帰った。テイクアウトはなにもできなかったけれど、思わぬお土産ができてしまった。
●せっせと梅仕事。これからの生活を考えるきっかけに
幼い頃から実家では毎年、梅干しと梅酒を漬けているのだが、梅干しは完熟の梅で漬けた方がおいしい。梅酒にする? でも去年のがまだたくさんあるしなあ。そうだ、梅シロップにしてみようかなあ。帰りに、グラニュー糖を1キロ買って帰る。帰って梅を移してみると、ボールに半分くらいあった。虫に食われているところは包丁で切ってのけて、さっと洗って軒先に広げて干しておく。
庭に出て植栽の手入れをする。パールアカシアがすごい成長だ。3月には同じくらいの背丈だったのに、もう私の頭のはるか上で気持ちよさそうに揺れている。
愛媛の祖母にもらったアッツザクラも、大岩ちどりも、目覚めの季節をしっかりと覚えていて、鉢の中に花を咲かせている。レモンの木もピンク色の蕾を膨らませ、葉っぱを手でこすると、手の平の上に爽やかな匂いを広げる。小さな庭に40種類ほど、ぎっしりと背比べする植栽。遠くまで行かなくても、ここで木々を眺めて、せん定したり水をやったりしていると、いつもと同じ初夏の一日だ。植物は賢いなあ。素直だなあ。そういうものと触れ合っていると自分がその一部であることに気づかされる。欲張らず、がんばりすぎず、自然体でいることが一番いいんだよと教えてくれる、私の先生はすぐそばにいる。
夕方、軒先に干していた梅が乾いている。へたを取り爪楊枝で二、三か所に穴をあけていく。初夏は子どもの頃から毎年、母や姉妹とこれをやってきた。いろんな話をしながら、この5倍の量はある梅に一つ一つ穴をあけた夜を思い出す。教えてもらわなくても、やってきたこと、見てきたことは体が覚えているものだ。
熱湯消毒した瓶に、梅、砂糖、梅、砂糖と交代交代に入れていく。砂糖の量は梅の重さの8割と言われているが私はちょっと控えて6割程度にしている。さあこれで、放置しておいて水が上がれば成功なのだけれど…。
翌日の朝、ほとんどなにも変わらないけど、心なしか砂糖が湿ってきている。夕方、階下へ降りていくと、底の方にわずかに水が溜まってきていた。母に「梅拾ったんよー」と報告の電話をしてみると「東京でもそんなことあるんだねえ。一日に数回、瓶を振るといいよ」ということで、逆さまにしたり振ったりするようにした。
3日後、梅が黄色に変色して水が半分くらいまで上がってきている。おお、いい感じだぞ! 一週間後、すっかり頭の方まで水に浸かって梅が浮いてきた。あとは底にたまった砂糖が溶ければいいだけだ。夫と台所を通るたびに、えい、えいっと瓶を振る。そして9日が過ぎるころ、黄金色の美しい梅シロップが完成した。
炭酸で割って飲むと、拾ったときには匂わなかった梅の香りがするじゃないか。なんてきれいで懐かしいジュースだ。砂糖を控えめにしているため、発酵するといけないので冷蔵庫で保管することにした。「飲みきったらまた砂糖を入れておくともう一回くらいは水が上がってきて飲めるよ」と姉が教えてくれた。へー、そんなお得な話があるんだなあ。
生活を工夫して生きることは楽しい。楽しいと思える生活が人を豊かにする。言葉にすると野暮ったいけれど、静かに梅に穴をあけながら、これからもこういう生活をしたいなと思った。自然は私たちにいろいろなことを教えてくれる。その自然の力を上手く活用して生活を送る。遠くを見ることも楽しいけれど、私たちのすぐ足元にこそ知恵やアイデアは転がっている。
【高橋久美子さん】
1982年、愛媛県生まれ。作家・作詞家。近著に、詩画集
「今夜 凶暴だから わたし」(ちいさいミシマ社)、絵本
『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)。主な著書にエッセイ集
「いっぴき」(ちくま文庫)、絵本
「赤い金魚と赤いとうがらし」(ミルブックス)など。翻訳絵本
「おかあさんはね」(マイクロマガジン社)で、ようちえん絵本大賞受賞。原田知世、大原櫻子、ももいろクローバーZなどアーティストへの歌詞提供も多数。公式HP:
んふふのふ