癒えない心の傷を抱えるヤングケアラーだった人たち

「周りの子は親に甘えているのに、自分は介護をしていてつらかったです」(富山県・44歳)

食事のお世話
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ここからは、実際にヤングケアラーだった子ども時代を過ごした人たちの体験談をご紹介します。

●病気の母を支えた学生時代。卒業後も給料を全額母に…

「中学生で母子家庭となり、その後、母がてんかんに。学生の頃から、食事づくりはだれにも教わらないまま私がつくり始め、大学卒業後も、給料は毎月ほぼすべて母に入れました」(千葉県・39歳)

現在、この方の母親は認知症になってしまったそう。
「私がお金を入れた事も大して覚えていません。私は報われない。優しいだけでは損をするなと切なくなります」

●アルコール依存症で無職の父が道端で寝てしまい…

「父は、私が物心ついたときに既に働いていませんでした。アルコール依存症で会社を解雇になっていたからです。父親に対し、私はとくに直接的にサポートやケアをしたわけではありません。けれど、父親が父親として機能していないので、妹の世話をしたり、進学が難しいので学生の頃から早朝バイトをしていました。
幼少時、外出先で父親が道ばたで寝てしまい、見知らぬ土地で幼い妹を連れて、なんとか帰宅したことはいまだに忘れません」(神奈川県・37歳)

親が精神的な疾患を抱えている場合、支援が必要であったとしても家の外にいる大人からはその状況がさらにわかりにくいという難しさがあります。
この方も「私のケースは軽いので、ヤングケアラーには当てはまらない気がします。でも私みたいなプチヤングケアラーも多いのではないでしょうか。そういう人たちの苦労も多少報われたりするればいいです」と今回のアンケートに詳しく回答してくださいました。

●中学生が弟の保護者会に出席…。高校時代は親族の介護も

「実母が親離れできていない人で、子どもよりも親を優先していました。がんで入院した父(私から見れば祖父)のために病院や実家へ行ったまま、家に戻らないこともしばしば。父も仕事から帰ってこず、夜の10時近くまで小学生の私が3歳下の弟の面倒をいつも1人でみていた状態でした」(東京都・51歳)

この方は、中学生時代に体調不良を訴える母親に変わって、弟の保護者会などの行事にまで行っていたそう。「叔父と伯父の面倒も高校から大学卒業までみていて、大学卒業後は祖父母の介護まで請け負うことに…。私の若い時代は本当に苦労の連続でした」と言います。
「あまりに我慢が続いた人生だったので、大人になってからも我慢をすることが当たり前となって、子どもをもつタイミングまで逃してしまいました。もっと、ワガママに生きてみたかったです。50歳を過ぎた今から、本当に自分の人生を謳歌しようと思っていたのですが、原因不明の病から目が見えにくくなってしまった上にコロナ禍もあり、人生はままならぬものだなあ、と実感する今日この頃です」

●体力も精神力も時間も削られる介護。ヤングケアラーたちのメンタルケア

介護

「いとこはたくさんいるのになぜか私だけ通いで認知症の祖母のお世話をしていました。いろんなことを背負い込み抱え込みながら、自分ならできると言い聞かせていました」(沖縄県・41歳)

「同居の祖母の介護をしていた当時、精神的にきつかったです。大変な母を間近で見ていたので、それを思えば自分もやらねばと思いました。それで、きつくあたってしまったこともあり、自分に後悔が今でもあります。当時の話になると、母も私も、泣けてきます。
そのときどきでベストと思ってやってきたことが、あとから考えると間違っていたこともありました。どこにも思いを吐き出せなかったのが、しんどかったです」(神奈川県・47歳)

「『私がやらなければいけない』という気持ちが強く、就職を断念しました。しかし、介護しながらの生活がしんどくなり、『やりたいことをできなかった』という後悔がきてしまって。結局、介護からも逃げるようになってしまい、その行動を今でも悔いています。そのときどうすればよかったのか、いまだにクリアできていません」(埼玉県・37歳)

「だれにも相談できず、頼れないので自分がすることが当たり前だと思っていた。今になってつらさがよみがえり、まだ癒やせていません」(会社員・47歳)

大人であっても突然の介護に直面したら、肉体も精神もかなり疲弊し、自分の時間も削られます。自らが子どもだった場合、勉強の時間が削られ、思い描いた進路をあきらめなければならなくなってしまうかもしれません。人生の見通しが立たない不安や恐怖感が子どもに与えるメンタルケアについても、もっと手厚いサポートが必要です。