料理研究家の平野顕子さん、著述家の中道あんさん。ふたりとも40代で専業主婦から一歩を踏み出し、新しい人生で見つけた仕事で活躍されて現在にいたります。「私らしい人生」を力強く歩む70代の平野さんと今年60歳になる中道さんの対談をたっぷりとお伝えする全4回の連載、最終回では、やりたいことをやる人生の秘訣や老後の人生観について語っていただきました。

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40代から変化する夫婦関係。別居婚を「ずるい」と言われて…
平野さんと中道さん
平野さん、中道さん
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平野顕子さん×中道あんさん対談【第4回目】

平野さんは「やってみないとわからない」から、「やってみはったら」の精神でフットワークよく挑戦し続けてきました。中道さんの場合は人と比べず、自分にできることを淡々と積み重ねて新しい幸せを目指したと言います。ふたりに共通しているのは、自分を信じて、今、この瞬間に集中して生きることでした。

●モヤモヤが無視できないほど強くなり、ついに離婚を選択

中道 人はコンフォートゾーンからなかなか抜けられないじゃないですか。こわいですよね。専業主婦だった平野先生が離婚を決意されたいちばんの理由は何ですか?

平野 決定的な出来事が起きたわけでないのです。最初の結婚では、北陸地方の歯医者の妻として、22年間何不自由なく暮らしていましたけれど、心の中には常にモヤモヤしたものがありました。気づかないふりをすれば、そのまま暮らしていけたかもしれません。でも、そういう状態は「幸せとは違うなぁ」と思っていました。子どもたちが大学生になって家を出た頃には、「これからの人生、夫婦ふたりだけで生きていくのはしんどいわ」と強く感じるようになっていました。

中道 「日本の夫婦はお金でつながっている、海外の夫婦はハートや生き方でつながっている」とよくいわれますが、その通りかもしれませんよね。私と同じ50代でも、「夫と別れたいけれど、お金のことが心配」と悩んでいる女性はとても多いです。

平野 お金はとても大事です。お金がなかったら、みじめになったり、卑屈になったりすることもあるでしょう。そういうふうにならないように生きたい、とは思うけれど。それよりもなによりも、お金が底をついても一歩踏み出したいと思ったのは、このまま自分の気持ちを偽って生きるのがものすごくつらくなったからです。無視できないほどその思いが強くなって、ついに離婚を選択しました。

中道 まったく同感です。私もそうでした。夫婦関係がつらい時期に信頼している方に相談してみたら、「みんな我慢しているのだから、あなたも我慢したらいい」と言われました。「みんな我慢しているからって、なぜ、私も我慢しなきゃいけないのだろう…。私の人生なのに」とどうにも腑に落ちなかったのです。

平野 確かにね、自分の人生、一度きりですからね。自分流でいいのですよ。他人と同じでなくて構いませんよね。一歩を踏み出さずに悩みながらそのまま過ごす人は、それはそれが自分流。だから、その選択でいいと思います。私も本音を言えば、離婚はせずに結婚をまっとうしたかったですよ。夫婦については、添い遂げないとわからないことがたくさんあると思いますから。

中道 それはわかります。うちの両親は滅茶苦茶仲が悪くて、「早く離婚したらいいのに」と思っていましたが、最後まで添い遂げました。父親が亡くなったとき、母親は周りの目をはばからずに泣いていましたから、「夫婦のことは他人にはわからないものだ」と確信しました。私たち夫婦は今、別居していて一緒に生きてはいないけれど、それはそれでよし。現世での修行をまっとうせずに途中放棄しているので、来世でもまた夫婦になって修行のやり直しをする羽目になるかもしれませんけれど(笑)。

平野 そうかもしれませんねぇ(笑)。私は2回目の結婚はまっとうしたいと思っていますよ。

●社会の荒波にもまれたことは、貴重な経験

平野さん

平野 私は離婚するまで外で働いた経験がなく、結婚したら義理の両親と夫に仕えるような生活でした。唯一、子どもの学校のPTA会長を引き受けたのが、社会との接点でした。
PTAの役員は私以外全員男性。「私、こういうことがやりたいので、やりますね」と話したら、「それは違いますよ。根回しをしてください」と忠言されてびっくり。つまり、みんなでお食事しながらお酒を飲んで、そうした席で他の役員の人に上手く話して了解を得るという、根回しが必要だったのです。「そういう段取りを踏んで初めてあなたの意見が通っていくのです」と教えられました。
郷に入らば郷に従えだと思ったので根回しはやりましたが、「社会っていうのは大変だな」と感じました。今にして思えば、いい経験をさせてもらいました。

中道 私の場合、OLを経て、結婚して、パートして、再就職して。再就職先で事務の仕事をしていたとき、涙が出るほど大変だったのですがお給料は安くて、「お金を稼ぐのは大変だ」としみじみ思いました。
パート時代にさかのぼれば、名前を覚えてもらえなかったですよね。「ちょっとそこの人」という言い方されて。すごい屈辱感を味わって、どうやったら名前を覚えてもらえるのかと考えたときに、自分でできることをどんどんアピールしていくしかないと思いました。積極的に動くと一目置かれるので名前は覚えてもらえますが、一方で敵もつくるのです。出る杭は打たれます。社会の荒波にたっぷりもまれました(笑)。