●器ひとつで気分も変わる

砥部焼の器に、紅菜苔の菜の花
砥部焼の器に、紅菜苔の菜の花
すべての画像を見る(全4枚)

昼ごはん。畑から帰って採りたての菜の花をゆがいて、何もつけずにそのまま食べる。心が潤っていくのを感じる。ついつい忙しいと器にまで気がまわらなくなるけれど、

「ちょっと待って、こっちの器の方が合うんじゃないかな?」

と、母に砥部焼のお皿を差し出す。

「そうじゃね。こっちの方が緑が映えるね」

小さな喜びや充実が積み重なって明日が作られていくんだな。畑と家の行き来の生活の中で、よりそういうことを感じるようになった。

 

●祖父母が残した大切な器を使ったら、暮らしに張り合いが出た

漆器の吸い物椀

『昭和元年』と書かれた木箱に入った漆器の吸物椀が20客以上納屋から出てきたのは五年程前。蓋付きで、朱塗りのとても素敵な色合いと形だ。漆器は日常使いにはちょっと扱いが面倒かなあと、使わぬまま取っていた。でも、そうしていたら一生日の目を浴びることがないんじゃないかなと母と相談して、最近、何客か食器棚に出すことにした。

祖父母の婚礼のときに使った椀だろう。昔は家で結婚式を挙げていたから相当な数の皿やお椀が箱に入ったまま家にあるのだ。七十年前の二人を想像すると幸せな気持ちになる。祖父母亡き後も時を越えて生活に二人の存在があること。しかも私と出会う前の二人の面影を感じられて温かい気持ちになり、味噌汁やお吸い物を口に運ぶ度に力をもらえた。

シックな朱色なので、日常の食卓にもマッチしているし、思ったより丈夫だった。とはいえ、洗ったらこれだけは先に拭いて棚にしまうようにしている。すると、ついでに他の食器も拭くようになり、キッチン周りがいつもより片付いていることに気づく。一つの吸物椀が入ったことで、日常の様々なことが好転していく面白さ。思い切って、生活にちょっといい物を取り入れてみると張り合いが出て気持ちも上がってくるんだなあと思ったのだった。

そんなわけで、これを書いたら私は布団にもぐりこむ。物書きでありながら、生活者であり続けること。むしろ私の文章は生活がなければ湧き上がってこないものなのだと気付かされる日々だ。おやすみなさい。