日本では6割の夫婦が陥るといわれるセックスレス。事実婚の夫から急に「“行為なし”で生きていきたい」と言われてしまった靖子さん(仮名・50代)。ヤングケアラーで青春時代がなかったという生い立ちを理解してくれた夫との生活でしたが、ある日、突然レスになってしまったというのです。詳しく聞きました。
「あの頃はまだ子どもだったけれど、精神的な部分は大人にならざるを得ない状況でした…」とご自身の過去を振り返る靖子さん。ヤングケアラーだったという生い立ちから聞きました。
だれにも甘えることができなかった子ども時代
すべての画像を見る(全4枚)「私がまだ幼い頃、母が病気で亡くなりました。その後すぐに父親が再婚して、継母との間に妹が生まれたんです。そのころからもう私と継母との相性は最悪でした。継母は継母で生まれたばかりの妹のお世話で余裕がなかったのかもしれません。とにかく私に対しての当たりが強くて、毎日叱られてばかり。父親は仕事が忙しいから、相談なんてできませんでした」
継母からイジメやネグレクトを受けていたわけではなかったものの、優しさや愛情は感じられず。小学校時代は安らぐはずの自宅にいるときが、いちばんしんどかったといいます。自分の殻に閉じこもりがちになっていった靖子さんでしたが、早く家を出るためにしっかり勉強せねばという強い気持ちが芽生えていきました。
第一志望の進路を辞退することになった理由
「当時はほかの人と比べる余裕もなくて、辛いとか大変という感情もわいてきませんでした。ただ、この家を早く出たい。その一心で全寮制の高校への進学を希望し、無事に合格。大手企業が運営している学校で、卒業したらそのまま就職が約束されているという状況でした。これで家から出られる! ここから私の人生が好転していく! そう思った矢先に継母が病気になったんです」
大病を患い、長い入院生活を強いられることになった継母。まだ妹は手がかかる時期だったこともあり、父親から「家から通えるところにしてくれ」と懇願され、すでに決まっていた第一志望の高校への入学を急遽辞退することになったのです。
「もうほかの選択肢がなかったんですよ。今ならば“毒親”という言葉もありますが、当時は自分しかいないと親に追い込まれて周りが見えなくなっていましたし、学校の先生に事情を話しても助けてはくれませんでした。高校時代は、朝も夜もとにかく家族の世話で手いっぱい。友達から遊びに誘われても私は妹と弟のごはんをつくらなきゃならないから、いつも断ってばかり。つまらないし、楽しくない毎日でしたね」
靖子さんの父親は、会社でもそれなりのポジションでお金には困っていなかったそう。今、冷静に考えれば、家政婦やシッターを雇うという選択肢もあったはずなのに、安易に長女にすべてを押しつけ、靖子さん自身も自分がヤングケアラーだと自覚できないまま月日が流れました。数年後、継母は亡くなり、妹もある程度自分のことは自分でできるような年齢へと成長し、やっと家の呪縛から解放されたのです。
「継母に対していい感情は持っていなかったので、悲しいとか寂しいとか、そういうのは全然ないです。ただもう家のことを押しつけられなくなる、よかった、そうホッとする気持ちの方が強かったです」