人生100年時代、生き甲斐を見つけて元気に働く人も数多くいます。今回取材したのは、94歳になった今も現役でお店に立ち続ける「佃煮処 千草屋」の看板娘・草間千恵子さんに、元気に働き続ける秘けつについて教えてもらいました。
すべての画像を見る(全4枚)94歳、「働き続けることが元気の源」
東京都台東区、浅草の商店街から小道を一本入り、道路沿いに面した「佃煮処 千草屋」の暖簾(のれん)の隙間から、笑顔がすてきな94歳の“看板娘”で店主・草間千恵子さんの笑い声が聞こえてきます。草間さんはハキハキとした口調でお客さんとの会話も楽しみ、「いやだぁ~、あなたおもしろいわねっ!」など、ツッコミや会話の受け答えも的確で素早いのです。
●働き始めて80年以上。「私まだ稼いでますから!」
昭和4年(1929年)、10人兄弟の4番目に生まれた千恵子さん。最初に働いたのは、なんと小学校4年生のときでした。
「その頃、弟が難病にかかって、母はつきっきりで弟の面倒をみていたので、私が学校を辞めて魚の配達を始めたんですよ。小さい体で思い荷物をせっせと押して。よろけながらも別の弟が自転車を支えてくれたり。しんどい、つらいとかじゃない。とにかく生きるために必死でしたねぇ…」
家族のために身を粉にして働いてきた千恵子さん。一方で、幼い頃から“働く”ということに興味があったそうです。
「与えられた仕事だけをこなすというより、『周りの人はどんなことを求めているんだろう』『なにをしたらもっと稼げるんだろう』と常に先のことを考えている子どもでしたね。銭ゲバじゃないわよ(笑)。ただ、人様に必要とされて働けることがうれしかったの」
太平洋戦争が終戦を迎え、エレベーターガールや進駐軍のメイドとして働き始めます。
「それだけじゃないの。その当時はみんなお腹を空かせていたからね。だから、近所のラーメン屋さんに行って、『どんぶり洗ってあげる!』と言って洗い場に入れてもらって。そこでラーメンのつくり方を見て覚えちゃうんですよ」
千恵子さんのラーメンは、当時闇市で1杯5円。飛ぶように売れたそう。
「すごかったですよ。5円のラーメンを求めて、いつも10人くらいの行列ができて。ほとんど一人でつくって売ってたから。楽しかったですよ。もう大成功。みんな喜んで食べてくれたんだから」
●70歳で働いた“商売のカン”。そして呉服屋からつくだ煮屋に転身…「ワクワクが止まらない」
その後19歳で結婚。嫁ぎ先の呉服屋では着物の着つけをしたり、ほどいて反物(たんもの)の状態に戻して洗い、改めて着物を整える洗い張りもこなしました。そして働くこと50年以上。70歳を迎えたある日、千恵子さんの“商売人の勘”が反応します…!
「だんだん時代の流れとともに、和服を着る人が減ってきちゃったの。だから、『このまま呉服屋を続けても、あまり先はないだろうな』と思って。これは私の考えね。そこで次に新しいことをなにかやろうと思って。さて、なにをやろう。『そうだ、呉服屋さん時代にお客様に配っていた“葉唐辛子の佃煮”があるじゃない! って思い出して。これがけっこうお客さんに好評だったんですよ』
「常に好奇心を持って、先のことを考えている」という千恵子さんですが、70歳で呉服屋からつくだ煮屋へ商売替えを決意。しかも未知の領域へ挑戦することに不安は感じなかったのでしょうか?
「不安はありましたよ。兄弟には『成功するはずない』と反対もされたけれど、私が決めて、私がするんだもの。『はい、結構です』って貫いちゃった。それに、『もう70歳』じゃないの。『まだ70歳』よ? どんな結果になっても責任は自分で負えるという覚悟もありました。なによりも、だれよりも、きっとワクワクしていましたね(笑)」
いくつになっても仕事を続けるコツは、「切り替えの早さと「挑戦し続けること」だといいます。千恵子さんにとって、年齢とは“挑戦し続けた証”。年齢を言い訳になにかをあきらめることはありません。