親との幼少期の関係で心にトラウマを抱え、大人になってからも悩みながら生きている人は少なくありません。
ここでは、自身も親との関係に悩み、発信をし続けているグラフィックデザイナーの西出弥加さんが、親からの虐待を経て、15歳で一人暮らし、結婚、離婚、出産を経験している女性、Yさん(42歳)の半生を取材しました。
親から父におびえて育った過去。大人になってもトラウマを抱え…
アダルトチルドレンという言葉があります。子ども時代の親との関係で、何かしらのトラウマ(心身外傷)を抱えながら大人になる人たちのことを指します。これは、大人になっても根深い問題で、悩んでいる人も多いようです。
今回、アダルトチルドレンとしてお話をしてくれたのが、Yさん(42歳)です。
●父親におびえて育った幼少期。家が戦場のように
――子どもの頃育った家庭のことを詳しく教えてください。父母と一人っ子の私で3人暮らしをしていた場所はまるで戦場のようでした。母と笑っているだけで、父から「俺をバカにしてんのか!?」と激怒されることが日常茶飯事。安心できるはずの家という場所が、私にとっては戦場のようでした。笑っても泣いても意見を言っても、なにをしても、怒鳴られる場所。常に緊張状態が続き気を緩められない状態が24時間、365日続いていました。
家では些細なことから言い合いが始まります。ある日、電話にカバーをつけるかつけないかでつかみ合いの喧嘩になり、私が母を守ろうとしたら父は「お前ら殺すぞ」と喚いて、散弾銃を組み立て始めました。守ってもらいたかったはずの父に攻撃をされ続け、母には見て見ぬふりをされていて、一体敵はどこにいるのか、味方はだれなのか、子どもの私は、無意識下で混乱し続けました。唯一心の救いだった私のぬいぐるみがあり、祖父から入院中にもらった大切なものでしたが、それも親に捨てられました。
●限界を感じたのは15歳の春。母と家を飛び出した
――その家で成人になるまで過ごしたのでしょうか?いえ、私が15歳のときに父のもとを離れました。父はアル中で働かず、喧嘩で割れたガラスも修繕できずに新聞紙がはってあったり、電気がつけられなかったり、トイレも流せなかったりと、貧乏なボロボロの家で、さらに怒られ続ける状態に命の危険を感じてしまったのです。当初は母と一緒に家を出ました。
しかし、“やっと安心できる”と思ったのも束の間、一緒に暮らしていくはずだった母が一週間で父の元へ帰ってしまい、一人暮らしをすることに。実家に電話しようにも父と繋がるのが怖くてできませんでした。家を出て緊張状態から解き放たれると思いきや、自分一人で稼がないといけない状態になり、親元を離れてからも緊張は解けませんでした。
そのとき探したアルバイトはお弁当屋さんです。16歳と年齢を偽って働きました。朝昼晩と、まかないの食事が出るので、食費をそこで浮かせながらバイト代を家賃にあてて生活していました。
家を出てわかったことは、世間は優しいということでした。自分の家から一歩外へ出ると、家よりもずっと穏やかな世界が待っていました。家族ではない人たちから、優しさというものをもらえた日々でした。「世間は冷たい」という言葉がありますが、私にとって家ほど冷たい世界はありませんでした。
●結婚、離婚、そして一人で出産。まさかの発達障害の診断
――社会に出てから変化はありましたか?家を出てさまざまな人と関わり、その後、結婚もしました。
しかし家庭環境からくるアダルトチルドレンの状態はその後も私を苦しめました。虐待は、されているときだけがつらいのではありません。逃げた後にもつらさがあります。世間の大半が普通に考えていることは教えてこられず、親の偏った認知で育てられるので、その“親の常識”を自分で軌道修正していくのは、かなりの時間がかかります。
また、常に心と体が緊張状態なのは、親と離れたからといってすぐに治るわけではなく、成人後もずっと続きました。
結果的に離婚をしてしまったのですが、結婚し、夫と暮らしたことがきっかけで発達障害ではないかと指摘を受けました。
というのも、片づけが極端にできなかったり、物事を順序立てて考えられないことが目立つことがあったのです。クリニックでの診断結果はASD(自閉症スペクトラム)とADHD(注意欠如・多動症)の混合。診断をもらうとなるとすごくハードルが高いように思えますが、私にとってはこれが人生での大きな救いで、プラスに動いた転機でした。
傾向を把握し自分で対策をしたら変わることができるし、自分が悪いのではないと思えたからです。見通しが立たないときもありましたが「ひとつひとつやればできますよ」という主治医の言葉が大きな助けにもなりました。医師や周囲の人と対策を練り行動することで、生きづらさがだいぶ減りました。
少しずつ対策ができるようになりましたが、それでも私が抱えるトラウマと特性により、人との衝突もたくさんありました。夫と離婚し、当時身ごもった子どもも一人で出産することになったのです。
●父を介護、看取る。今は恨んでいない
――その後、親とのご関係に動きはありましたか?最終的に父は寝たきりになって、亡くなりました。看取ったのは私です。
私が連絡を受けたとき、住んでいる部屋は虫だらけの糞尿まみれで強烈な異臭がただよっていました。父のことは嫌でしたが、一人娘の私が介護を引き受けました。このとき親を見放すことができませんでした。あんなに虐められた過去があるのに、父の生活保護担当の方にも、父をきちんと見てほしいと話している自分がいました。
安心サポートに父のお金を預けましたが、父には「お前が金を盗んだ」と言われました。そういえば幼少期からいつも私の意図とはまったく別の方向に解釈され、つねに肩透かしだったことを思い出しました。20歳の誕生日のときに初めて父から電話がかかってきて、祝ってくれるのかなと淡い期待をもって訪ねたら、金融機関を回らされ「もう20歳なんだからサインできるだろ」と言われてしまい、お金を借りてくれとのことでした。小さな期待から大きな落胆の繰り返し。親といる時間は、そんな人生だったように思います。
しかし私は親を憎めません。父を看取りましたが、そのとき思ったことは「母に愛されててよかったね」という想いです。だれか一人でも、ありのままの自分を認めてくれる人がいるのは幸せなことだと私は思います。
●たとえ親であってもつらいなら逃げてもいい
今虐待を受けている人は、すごく大変だと思います。とにかく自分を責めないで、できれば早く離れて欲しいなと思います。
離れてからも大変で、親に教えられた間違いの常識を、修正していかねばなりません。親は変わらないと私は思っているので、唯一できることは逃げることです。
自分のために、生きてほしいです。もちろん、大きなトラウマなどで他人との衝突などもありますが、社会は意外と助けてくれるものだと感じました。
私が親から教わった社会の殺伐としたイメージは消え、他人に対しての善意や貢献で成り立っている世界なのだと思えました。長い時間はかかりましたが、このような理解にたどりつき、人と人の暖かい心の繋がりを感じ、今はとても幸せで、子どももとても大切な存在です。私も、自分と今いる子どもを大事に、毎日を積み重ねいこうと思っています。
●インタビュアー・西出さん自身のことをつづった記事はこちら 毒親に心を壊された私。過剰な愛情や潔癖症がトラウマに…【西出弥加さん】
絵本作家、グラフィックデザイナー。1歳のときから色鉛筆で絵を描き始める。20歳のとき、mixiに投稿したイラストがきっかけで絵本やイラストの仕事を始める。Twitterは
@frenchbeansaya