毎日の健康管理はスマートウォッチとアプリで。ツイッターのつぶやきは、日に2度、3度。30代、40代の人の話じゃありません。ツイッターアカウント『わたくし92歳』(

@Iam90yearsold

)こと、森田富美子さんに、SNSで発信するその思いと、元気なその暮らしぶりを伺いました。

森田富美子さん
ツイッターで話題になった森田富美子さん
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「わたくし92歳」で話題の森田富美子さん。戦争経験者だからこそ伝えられること

自民党総裁選の開票日だった、9月28日。
「誰が選ばれようと、好きなスイーツは何だとかいう報道はいらない。バカバカしいご祝儀支持率をもっともらしく報道するのもやめて欲しい。お祭り報道は横目で見て、野党共闘しっかり準備、衆院選に備えよう。」

ツイッターのこの言葉に、一気に400以上もの「いいね!」がつきました。

●原爆被害者として、もう黙っていられない!

「ツイッターは、10年以上前、まだLINEがなかったころに、鍵アカ(鍵をかけたアカウントのこと。特定の人の間でしか読めない設定)で家族間の連絡用に使っていたんです。でも、母が『どうしてもツイッターで世の中に言いたいことがある』って言い始めて。それで2018年に、公開用のアカウントを開設したんです」
そばにつきそった、娘の京子さんがそう解説してくださいました。

富美子さんは昭和4年、長崎県生まれ。戦争に青春時代を奪われ、爆心地から10キロほど離れた軍需工場で『報国隊』として働いていたとき、原爆が投下されました。当時富美子さん16歳。鶴鳴女学校(現鶴鳴学園長崎女子高校)の生徒でした。その一瞬で、両親と幼い弟たち3人を失ったのです。

「自宅から500mほど東にあった防空壕に2歳下の妹がいました。数日前、機銃掃射にあった妹は恐怖から表に出なくなっていました。妹は怪我も火傷も負ってはいませんでしたが、被曝によるダメージは強く受けており、50代で亡くなりました」(富美子さん)

もともと、政治には関心があり、ニュースも新聞も毎日欠かさずチェックしていたという富美子さん。つぶやき始めた一番のきっかけは、去年(2020年)の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での安倍晋三首相の挨拶だったと言います。

「その数日前の、広島での式典とそっくりおんなじ文言。ただ、広島を長崎、と言い換えただけ。一国の首相が、これほど国民を苦しめ、犠牲を出した戦争を悼む式典で、そんなおざなりな挨拶をするって、ありえないでしょう?」

式典翌日のツイッターでつぶやきました。
「安倍という人は何も知らない。知ろうとしない」

●両親と弟たちを自ら火葬にした壮絶な経験

森田さんのツイート
森田さんのツイートが瞬く間にSNSで広がりました

「学校には毎日行くけれど、行っても授業などありはしません。『報国隊』ってね、軍需工場で戦争の後方支援のために働くんですよ」

その日は快晴の夏日。早朝から電車と船を乗り継いで、香焼(こうやぎ)島(現在は埋め立てられて地続き)にあった造船会社の工場で作業をしていました。
爆心地から約10キロ。級友たちと歌を歌ったりして談笑していると、突然『どーん!』という音とともに、猛烈な風が吹き込んできました。爆風です。富美子さんたちはとっさに伏せたといいますが、ありとあらゆるものが工場の奥に吹き飛ばされるのを見ました。

「長崎が燃えている!」

誰かの声に丘に駆け上がって自宅の方を見ると、家のある長崎市内から大きな煙が立ち上っているのが見えます。
長崎市内へと渡る船に飛び乗り、とにかく自宅を目指しました。陸に上がると駅方面は火事の熱が激しく、自宅がある北側へは進めません。防火用水をバケツに3杯かぶり、北西へと山伝いに進みました。ようやく自宅にたどりついた時には翌日になっていたといいます。

「一本だけ残った門柱に、メガホンを持ったままもたれかかって立っている、黒焦げの父。部屋があったところには、母が三男をかばうように抱きかかえたのだと思われる、小さなクッション大の真っ黒なかたまり。茶の間の黒いかたまりは次男。それぞれ、5cmほどだけ焼け残った、衣服の布切れでわかりました」

想像すらできないほどの地獄絵図だったことでしょう。富美子さんはたったひとりで、家族の遺体を集め、その場で荼毘に付しました。

「誰もが親を失い、子どもを失い、全員が遺族。私だけじゃなかった」
火葬しながら、両手にはべっとりと、ドス黒い血のりがつきました。

「家族が残したのはこれだけだと、手のひらを強くすり合わせ、体の中にすり込みました」