相続の際に「ハンコ代」という言葉は聞いたことがあるでしょうか。
「遺産をもらわない相続人に対し、このお金をあげるからハンコ(実印押印と印鑑証明書)をください、というものです。ハンコ代の金額は一般的に些少で、ハンコをついた相続人の法定相続分が確保されることはありません」というのは、相続の問題に詳しい司法書士の鈴木敏起さん。
今回は、50代の茂木美樹さん(仮名)という方を事例にして、解説していただきます。
「ハンコ代」の相場は数万円?円満な相続を進めるために必要なこと
相続の際のハンコ代。たとえば、親の自宅(実家)をどうしても相続したい相続人が、「親と同居して親の面倒をみていたから、自分が相続できるはずだ」とタカを括り、兄弟や姉妹は、当然にハンコを押してくれるだろうと思いこんでいることがあります。
仮に数万円といういわゆるハンコ代レベルの金額ですむケースであっても、ボタンを掛け違うと、相続はこじれます。
ほかの相続人は、ハンコ代ではなく法定相続分ベースの「代償金」を想定していることもあり、相続人の間ですでに認識のすれ違いが起きていることもあります。
美樹さんの場合はどうなるのでしょうか。
●ハンコ代の相場はどのくらい?
「ハンコ代の相場はあるのかしら?」美樹さんはふと思いました。
父は2年前に他界し、実家は母名義となっています。美樹さんは5年前に離婚し、子どもを連れて実家に戻り、父母と一緒に暮らすようになりました。
美樹さんの現在の収入では、賃貸で暮らすことも難しく、母が亡くなった後も、実家での生活を続けたいと思っています。
美樹さんには姉が2人いますが、母が亡くなった場合、美樹さんが実家を相続することを、姉二人にお願いするつもりです。そのとき、遺産分割協議書に印鑑をもらう際に姉2人に支払う「ハンコ代」について気になったのです。
そこで美樹さんは、地元のS司法書士事務所に相談に行きました。
S司法書士はまず、美樹さんに母の財産価額について確認しました。自宅は約3000万円、母の預金は現在600万円というところです。
美樹さんは聞きました。
「私が母の自宅を相続したいのですが、姉2人にはハンコ代を支払って、遺産分割協議書に印鑑をついてもらおうと思っています。なんだかんだ言っても、同居している私が一番母の介護を担うので、姉2人は当然に協力してくれるはずです。ハンコ代はいくらくらい用意したらよいでしょうか?」
S司法書士は、答えます。
「ハンコ代は、『時価』に近いものがあります。すなわち、一般的な適正価格があるわけではなく、ハンコを押してくれる相続人が納得すれば、それはどんな金額であってもハンコ代として成立します」
●ハンコ代の金額を決める呼吸とは
なるほど、と思った美樹さんは、「そのとき」のシミュレーションをするため、さらに突っ込んだ質問をしてみました。
「ハンコ代の金額は、一般的にどちらから提示してみるものですか?」
S司法書士は、答えます。
「ハンコ代は、遺産分割協議書に謳わないことが多いので、必ずしも事前に取り決めておくことがスタンダードではありません。親の自宅を自分が相続するという内容の遺産分割協議書を持参し、相手方に印鑑をお願いする際に、お礼として持参することも多いでしょう」
「その際、相手が納得できる金額と差があるときは、『バカにするな』と相手は思い、遺産分割協議はこじれます。とくに、親の自宅は自分が相続して当然という思い込みが強いケースは、相手方の気持ちを量りかねて、失敗することがよくあります」
●目論見どおり、ハンコ代ですむのか?
さらに、S司法書士は、美樹さんに質問します。
「お姉様方と、母様との関係はいかがですか? お母様の生活のフォローなど、お姉様方はしてくださっていますか? また、お姉様方の家計はどのような状況でしょうか。お子様がお金のかかる時期などではありませんか?」
美樹さんの姉はいずれも結婚し、比較的近所に住んでいました。母のことは姉2人もなにかと気にかけてくれており、母の外出や通院に付き添ったりしてくれています。姉の子どもはそれぞれ大学生や高校生で、S司法書士の指摘のとおり、お金のかかる時期でした。
S司法書士の話は、佳境に入っていきました。
「相続による財産取得への想いは、母の(とくに晩年の)生活に対する、相続人それぞれの貢献度と比例することがあります。『私はこれだけ尽くしたのだから』という想いが、相応の財産の分配にあずかって当然だ、という気持ちを生みます。お姉様お2人のご様子を伺う限り、『ハンコ代』のレベルですむ話ではないかもしれませんね。」
「どういうことでしょうか?」と美樹さん。
「お姉様方としては、いわゆる『ハンコ代』ではなく、法定相続分をベースとする『代償金』を要求してくる可能性も十分にあります。相続は一生に一度あるかないかの大きな財産を取得する機会です。とくに、相続が発生した時期の、相続人個々の環境が、個々の主張内容を左右します。お姉様方のお子様がお金のかかる時期となりますと、『代償金』の請求をしてきても不思議ではありません」
とS司法書士は締めくくりました。
●「姉が譲ってくれるだろう」という思い込みは禁物!
「ハンコ代」は、その金額もさることながら、ハンコ代にまつわる各相続人の意識の格差が、いわゆる「争族」の要因となります。このような現場の話を参考にしながら、親の自宅をどうしても相続しなければいけない方は、しかるべき準備が必要です。
S司法書士によると、解決金となるのは以下の3つ。今から準備できることもあります。
(1) 法定相続分をベースとする「代償金」を準備する(金額:大)
(2) 仮に母が遺言を書いてくれた場合、「遺留分」を準備する(金額:中)
(3) 姉たちから相続についての考えを聞き、「ハンコ代」ですむのか話し合う(金額:小)
「自分が一番介護を担うのだから実家をもらえて当然」と思い込むのは禁物。本来ならどのくらい姉たちに代償金を払う必要があり、逆にどのくらい姉たちは美樹さんに譲る気持ちがあるのか。
介護は時間や手間、お金がかかるもの。今のうちから相続について知り、負担について話し合い、相続人の間の意識のすり合わせをするのが、円満な相続につながると納得した美樹さんでした。