たびたびニュースでも見かける「児童虐待」。報道を見るたびに心が痛みますが、その数は年々増えているのだそう。子どもの頃のつらい記憶はそう簡単に消えるものではありません。

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つらい記憶の幼少期。大人になった今もふとよみがえることも…

女性
なかなか消えないつらい記憶(※画像はイメージです。以下同)
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ESSEonlineでも活躍するライター・ふくだりょうこさんもそのひとり。今回はふくださんが幼少期にうけた「虐待」についてつづってくれました。

●自分の家族は普通じゃない…。気づいたのはニュースがきっかけ

自分の親が異常なのだということに気がついたのは、結婚してからだった。虐待で亡くなった子どもに関する報道を見ていたときに、「自分の家でも同じことが起こっていた…」と思った。たった一つ、子どもが死ななかったという点を除いて。

わが家は両親と父方の祖母、5人の子どもの8人家族だ。私は5人きょうだいの長子にあたる。私の1つ下の二女と4つ下の長男はそれぞれ、20代前後で家出をしてそのまま帰ってこなかった。ときを経て、今はたまに実家に連絡は入れているようだが、詳しい状況は聞いていない。

彼らが出て行ったのは、虐待があったからだ。私の中にある子どものころの最初の記憶は、裸足のまま、外に出されている自分と妹。きっとなにか怒られるようなことをしたのだろうけれど、詳しい内容は思い出せない。ただ、じゃりじゃりとしたコンクリートの感触と、かじかんだ指先を覚えているので、たぶん冬だったのだと思う。

●暴力は日常茶飯事。学校もろくに通わせてもらえなかったあの頃

泣く子ども

家の外に叩き出されるのはまだいいほうで、殴る蹴るは日常茶飯事だったし、ひどいときには天井からつられたこともあった。部屋の中に閉じ込める、たばこの火を押しつけるなど、とにかく家出をした2人に対してはとてもひどくて、常に体にあざやヤケドの痕があった。

私はベルトで文字通りシバかれたり、理由もなく殴られることはあったけれど、痕が残るような暴力を受けたことはなかった。だけど、家を出ることは許されなかった。小学校は通わせてもらえず、2年生の途中からやっと行けるようになった。その直前に、市の人が来ていたので、なにか言われたのだろう。

7歳にして、ようやく家族以外の人と接することができるようになったわけだが、わからないことだらけだった。それでも学校は楽しかった…と思う。なにせ、家では父親の機嫌を損ねないように常に気を張っていたから、学校が唯一ホッとできる場所だったのだ。

テストの点数が悪ければ殴られるし、罰として学校に行かせてもらえなくなるので必死に勉強し、おかげさまで(皮肉である)成績はよかった。