ペットの柴犬の写真をツイッターに投稿し続け、その自然体のかわいさが人気となっている
@inubot。ESSEonlineでは、飼い主で写真家の北田瑞絵さんが、「犬」と家族の日々をつづっていきます。
第15回は、海と犬と両親、まるで夢のようなとびっきりの思い出について。
死ぬときの走馬灯プレイリストには、今日の光景を入れたい
父と母と犬と、少しだけ足を伸ばして海に向かった。
2年前にも海の近くに住んでいる友人をたずねて訪れたことがあったが、そのときは真夏の8月で、砂浜に裸足では降りられず、車窓から海を眺めるだけにしたのだ。
夏の余韻が留まっていた9月も半ばを過ぎれば、空はだんだんと高くなり、庭の萩の花が咲きこぼれるようにして秋を知らせてくれている。犬は夏のしるしであった毛並みから秋冬に向けてゆっくり着替え始めていて、なでればするりと毛が抜ける。
すべての画像を見る(全19枚)今回は父の車で出かけるので、軽快な足取りで後部座席に乗り込んでいく犬に続いてお隣に座った。普段乗り慣れていなくとも家族の車であれば扉が開けば跳ねるように飛び乗っていくので、こんなふうに車に抵抗がないからお出かけしようともなるよなぁと横顔を眺めていたら、高速道路に入っていった。
普段のお出かけに比べたら乗車時間が長いので気分を悪くしないか心配だったが、タオルケットの上で落ち着ける姿勢を見つけてすーすぅーーと寝息を立てはじめたので、胸をなでおろした。犬の順応力の高さに助けられている。
犬越しの流れていく空の青さを眺めていたら、現地の友人から「今日は海が青い、すばらしい天気!」というLINEが届いた。ふいに「犬より一日でも長く生きやなあかんなぁ」と言われたことを思い出した。
それは育てる責任の話をしていた流れでの発言だったのだが、なんだか私には自分が生きている理由を言い当てられたようにも聞こえた。
こんなこと書いていたらまた妹から「ねぇはほんま大袈裟よ」と呆れられるかもしれないのだけれど、大真面目だ。この5年の間、犬が重しをしてくれていると思うことは一度だけではなかった。
海と川とでは別物だが、川で遊ぶときの様子から鑑みても海を怖がらないだろうなと予測していた。犬は浜辺の入り口に立って一面を見渡すと、よーいどん! と海に向かって全力疾走をはじめたのだ。
引き連れられるように母が笑い声を上げて駆けていき、ふたりが走っていく先にはすでに波打ち際で父が一番乗りで立っていた。
まさか自分の人生のなかで「犬と両親と海を眺める」なんて出来事が用意されているとは夢にも思わなかった。
着いたばかりであったが、この時間が終わってしまうことを寂しく感じていた。
潮の香りが新鮮なのか、犬はフンフンと鼻を忙しそうに働かしていた。こうして海を目の前で見ることも、潮風を浴びることも、目の前の出来事すべてが初めてなのだ。川とは違う、波が寄せてくることに戸惑っていた。だがすぐにやんちゃな表情に変わって、遊びへと変換していく。
波が引けば犬は追いかけていって、波が押し寄ってきたら犬は波に足がつかないようにジャンプしながら逃げていって、繰り返し追いかけっこをしていた。おどおどしつつ、新しい遊びを発見したよろこびにあふれていて、母と父が見守っていた。
私は「海といえば波打ち際を走らねばならない」という使命感があり、右手でリードをひしと握って犬と走った。ザーザーっと響く波の音と、波の動きに合わせてまっすぐ走らないタッタッ…タタッ…といった不規則な足音を忘れまいと聴覚に意識を集中させて、夢中になって走った。
経験していなくてわからないのだが、死に際に生きてきた間の記憶が走馬灯のように映し出されるというのが真実だとするならば、この日渚を駆け抜けている犬を見せてもらえないだろうか。といいつつ指定が可能ならば日常生活のなかでも名シーンが多々あるので、こちらで走馬灯プレイリストの編集をさせてもらうことは可能でしょうかと海の向こうへ請うた。阿呆だが、阿呆になって請いたくなるような、それほどの時間だった。
遠出から帰ってきたら、やっぱり家がいちばんおもしろくていちばん落ち着くなぁと、居場所があることに安堵する。
時間も肉体も有限だと年々感じるが私たちはざっと残り百余年生きるので、今のうちはたまに遠くに出かけたりしてまた海も見に来よう。そして結局家がいちばんいいいわなんて居間に転がり笑うのだ。
この連載が本『inubot回覧板』(扶桑社刊)になりました。第1回~12回までの連載に加え、書籍オリジナルのコラムや写真も多数掲載。ぜひご覧ください。