過干渉や言葉の暴力などで子どもを傷つける「毒親」。じつの親子だからと言って、いい関係を築いていられると決まったわけではありません。かかわりが深いからこそ、近すぎる存在に耐えられなくなるということも多くあるようです。
ESSE読者が体験した「親ともう縁を切りたい」と思った瞬間を取材しました。お話をうかがったのは、多田沙和子さん(仮名・既婚・42歳)。

幼少期からヒステリックな母親の呪縛から結婚後も逃れられず…

母親と悲しむ娘のイメージ
母は経済制裁を加えられる自分の力を見せつけたかったのかもしれません…(※写真はイメージです)
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●生理で汚したシーツを見て「下半身がだらしない」

「あんたも大変だったね。でも、あと少しだからがんばれ」
―母と仲のいい近所のおばさんからそう言われた高校3年生のとき、私は初めて、やっぱりうちはおかしかったんだと気づきました。母はヒステリックで自己中心的な人でした。姿勢を正して食事をしろと、背中にものさしを入れられたこと、「お茶をこぼした」という理由で、腫れ上がるほど何発も殴られたこと、主要教科の成績がオール5で体育だけ4だと、どんくさいと叱られたこと、生理のときに汚してしまったシーツを見て「下半身がだらしない」「下品な女」と罵倒されたこと。
父は仕事が忙しく、私がこんな目に遭っていることにはまったく気づいていませんでした。

私は、そんな母にとくに口答えもせず、一生懸命勉強をして地元の進学校に通っていました。成績はそこそこよくて、大学受験も、第1志望校はダメだったものの私のなかでは納得のいくところに合格。ところが、母は「あんな大学に行くための学費なんか払えない」と、入学金の支払いを拒否したのです。今思えば、母は最終的には入学金を出す気はあったのだと思います。ただ、経済制裁を加えられる自分の力を見せつけたかった。私がしょんぼりとうなだれたり、「お願いします、出してください」と懇願すれば、気持ちが収まったのでしょう。

でも、あのときの私は、住み込みのバイトを自力で見つけ、入学金を捻出。母には一銭も払わせることなく入学しました。心のどこかで、あの頃からもう母に見切りをつけていたのかもしれません。母はひどく驚いたようでしたが、家計から出さなくてすむなら、その方がありがたかったみたい。

その後大学に入ってからは、学費を出すためにバイトに次ぐバイト生活。そんな私に母は「家にもお金を入れろ」と言ってきました。母の要求は、家の貧しさからくるものではなく、投資用のマンションを買いたいから、といった理由でしたが、反抗しようとは思いませんでした。

●母から解放されたことで精神のバランスを崩す

うつろな女性のイメージ
(※写真はイメージです)

こんな親の家は一刻も早く出たかったけれど、母に持病があったことと、卒業後は私自身が奨学金の返済に追われていて、少しでも節約したかったため、やむなくの自宅暮らし。
結婚を機に晴れて家を出ることができたのは、27歳になる少し前でした。

ところが、結婚数か月で強迫神経症みたいになってしまって。心療内科へ行ったら、「生まれてからずっとかかっていたストレスが、急にはずれたことで精神のバランスが崩れたことによるもの」とのこと。母の存在がどれだけ私のストレスであったかを、あらためて知ることになりました。

その頃から、精神医学の本や親子関係の本を読んだり、同じような経験をもつ人から話を聞いたりして、自分と母との関係を少しずつ突き放して眺めることができるようになりました。子どもを出産後、母のあまりの暴言に耐えかねて、1年間ほど距離をおいた時期もありましたが、なんだかんだでうやむやになり、母の暴言は相変わらずですが、一定の距離をとりながらも疎遠にはならずになんとかやっています。

縁を切ってしまった方がラクではないか、と思ったこともあります。でも、持病を抱えた母に、縁を切っている間にもしものことがあったら、と考えると恐ろしくなった。そんな状況で死なれたら最後、私は一生母の呪縛から逃れられないでしょう。母の呪縛は死んでもなお娘を縛りつけるのです。当面は、距離をとり表面的なつき合いを続けようと思います。

●多田さんの現在の家族構成

夫(43歳)、長女(12歳)の3人暮らし
実家の家族構成 父(75歳)、母(80歳) ※実家との距離 クルマで20分