6月8日に公開された映画『
羊と鋼の森』。山﨑賢人さんが演じる主人公の外村が、ピアノの音に魅了され、調律師を志す物語です。
ここでは、2016年に本屋大賞を受賞した同名小説の作者、宮下奈都さんにインタビューしました。
書く喜びがあるから書いている。映画化はごほうびのようなもの
すべての画像を見る(全1枚)映画化についての思いと、6年半にわたる
ESSEの連載をまとめた新刊の食エッセーについて伺いました。
●小説の音を取り出すのは勇気がいったと思う
完成した映画の感想を伺うと、「最初に誠実に説明してくださったので、私からはなにも注文はなかったのですが、信頼しておまかせしてよかったです」と宮下さん。
「場面、場面が本当にきれいで、とても丁寧につくってくださっているのが伝わりました。ピアノの調律師の話だけに、最初の一音を出すのにすごく苦心されたと思うんです。あの一音で観客の心がつかめるか離れるかっていうくらい重要で。文章で書くのは、読む人が心のなかで音を響かせてくれるけれども、それを取り出して現実の音として聞かせるのは、とても勇気がいったと思います。それをちゃんとやってのけるというか、成功させているのに感激しました」
小説がベストセラーになり、映画化され、いろいろと状況が変わってきたのでは? と聞くと、「いえいえ」と即答。
「福井に帰るとお母さんの時間の方が長いので、生活が大きく変わることは、まったくないです。小説は書く喜びがあるから書いている、という感じ。そこに全力をつくすので、完成した時点で私の手から離れた感覚なんです。だから本屋大賞のときもそうですけど、私にとって映画化は、あとからついてきたごほうびのようなもの。映画を観て、原作本を手に取る人がいてくれたら、うわぁうれしい、ありがたいなぁって思います」
●毎月エッセーを書くことが心の支えになったことも
5月末には、ESSEで連載しているエッセー
『とりあえずウミガメのスープを仕込もう。』をまとめた本が、発売になりました。
「連載が6年半も続いて、一冊の本になるとは感慨深いです。こんなに長く続くと思わなくて、最初の頃は、毎回『これが最後かも』と思いながら書いていたんですよ」
連載中には、家族で北海道に移住した時期がありました。
「一年間、まったく見ず知らずの土地に行くことになって、でも月に一度のこの連載では変わらず食べることについて書き続けて。新しい生活のなかで、この毎月のルーティンがけっこう支えになっていましたね。それも、もう5年ぐらい前の話かぁ。早いですね」
小学3年生だった末っ子の長女が今は中学3年生。3人の子どもたちもすっかり大きくなりました。
「過去の連載を全部読み返して、昔の方がまじめだったなぁって思います。子どもがちっちゃかったこともあるのかな、ご飯をつくることに対してもまじめだったし、文章を書くことに対して今より力が入っていたところがあるかも。でも、こんな風に書いたっけ? って、気づかされたり、昔の自分が書いていることに、背筋を伸ばされるようなところもありました。そっか、そんな気持ちだったのかって」
本には選りすぐりの78編を収録。なかでも思い入れのあるエッセーはどれでしょう。
「たとえば息子の受験のときの話(『カツ丼』)は、試験がうまくいかなくて落ち込む息子を見るのが忍びないとか、そういう絶対忘れられない出来事だったのに、読み返すまですっかり記憶の外でした(笑)。私、書いたらすぐ忘れちゃうんです。でも、書いたことを全部覚えていたらつらいとも思うし、過去に書いたものに引っぱられちゃうのも困るので、まぁしょうがないかなって。あ、でもお正月に母子でカレー屋さんへ行く話があって(『お正月のカレー』)、あれはだれかを励まそうとかでなく、自分のために書いたのかもしれません。お正月だって、家でご飯をつくらずにチェーン店のカレーを食べに行っていいんだっていうあの解放感は、忘れられないですね」
●この本が読む人の一杯のスープになりますように
本の最後には、エッセーのタイトルにもつながる書き下ろしの短編『ウミガメのスープ』を収録。今と未来へ不安を抱える女性の心の揺れを丁寧に描き、迷いながらも真摯に生きる姿に勇気をもらえる作品となっています。
「食べることって生きること。日々、いいことも悪いこともいろいろあるけれど、全部ひっくるめて煮込んでスープにしてしまおう、そうすることで、また明日も歩いて行ける、そんな気持ちを込めました。この本が、読む人にとっての一杯のスープになってくれたらいいなと思います」
【宮下奈都さん】小説家。1967年生まれ。夫と3人の子どもと福井県に住む。みずみずしい感性で描く繊細な心理描写に定評があり、2016年には『
羊と鋼の森』(文藝春秋刊)が第13回本屋大賞を受賞。同作は映画化され現在公開中。最新刊は、さまざまな変化があった宮下家の6年半の暮らしを、「食」をとおして温かく描いたエッセー集『
とりあえずウミガメのスープを仕込もう。』(扶桑社刊)